天上編① まえがき

(わた)しが これからここに(しる)(こと)は、実際(じっさい)自分(じぶん)()()って[三次元(じげん)現世(げんせ)一人(ひとり)人間(にんげん)として()ていながら、四次元(じげん)霊界(れいかい)()れている[法界(ほうかい)](みずか)体験(たいけん)した(こと)事実(じじつ)(もと)いて(しる)ており、(けっ)()()りでも創作(そうさく)でもありません。

 

(ただ)(わた)しは(なが)(あいだ)最高(さいこう)仏法(ぶっぽう)であると()れている「大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)」を修行(しゅぎょう)して()いながら、(いま)(ちまた)色々(いろいろ)とブームになっている「霊界(れいかい)」と()(こと)(たい)ては、あまりにも()なさ()るのではないでしょうか。

世間(せけん)では(ただ)人間(にんげん)()でしまえば(なに)わからなくなってしまうとか、迷信(めいしん)だとか、そんなものは()通力(つうりき)()ない(とう)(とう)簡単(かんたん)片付(かたづ)けてしまって()ものでしょうか。人間(にんげん)生命(せいめい)ある(かぎ)(だれ)しもが生死(せいし)()(こと)には一番(いちばん)関心(かんしん)()ているはずなのですから。 

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 (いま)日本(にほん)世界(せかい)経済大国(けいざいたいこく)とまで()れ、国民(こくみん)生活(せいかつ)(むかし)(ちが)贅沢(ぜいたく)になって、(まち)には(もの)があふれていると()時代(じだい)に、民衆(みんしゅう)最高(さいこう)仏法(ぶっぽう)(みちび)には、()して功徳論( く どくろん)だけで(ひと)納得(なっとく)するでしょうか。そして(こころ)時代(じだい)とも()れている今日(こんにち)人々(ひとびと)(もの)よりも(こころ)(もと)ているのではないのでしょうか。

そうです。その(こころ)(ささ)(ちから)となり人々(ひとびと)幸福(こうふく)へと(みちび)ていける(おし)こそ、大聖人(だいしょうにん)(さま)(おし)でなくてはならないし、(ほか)何物(なにもの)でもないのです。

その(おし)修行(しゅぎょう)している私達(わたしたち)こそ他宗(たしゅう)(だれ)よりも、もっとも人間(にんげん)生命(せいめい)本質(ほんしつ)実態(じったい)()ものを事実(じじつ)(もと)いて、かつ具体的(ぐたいてき)(ひと)にわかり(やす)(おし)られるような自分(じぶん)(たち)になって()なければ、(ひと)はとても(しん)てはくれないでしょうし、(すく)ていく(こと)出来(でき)ません。それには()自分(じぶん)がすべてを()()(こと)です。(中略(ちゅうりゃく)

 

本当(ほんとう)大聖人(だいしょうにん)(さま)が、おっしゃられているような成仏(じょうぶつ)()最高(さいこう)境界(きょうがい)()(こと)出来(でき)るのでしょうか。(わたし)(つね)自問(じもん)自答(じとう)した(すえ)(つい)決意(けつい)せざるを()なくなったのです。

「そうだ、これは(だれ)(なん)()ても自分(じぶん)()しかない。自分(じぶん)(いのち)()()しかない…」そのような決意(けつい)をした(とき)不思議(ふしぎ)(むね)(あつ)なるような確信(かくしん)()てきたのです。(わたし)が、この仏法(ぶっぽう)修行(しゅぎょう)して()(うえ)()て、必要(ひつよう)があるものならば、(いま)までにどなたにも(おし)(いただ)なかったようなもの…。

(わた)しが(もと)ている「大聖人(だいしょうにん)(さま)(まこと)(ほう)」と()ものはどう()ものなのか、(かなら)(おし)(いただ)るに(ちが)ない。そう(おも)ただけで(なに)自分(じぶん)(むね)一筋(ひとすじ)光明(こうみょう)()てきたような()さえしてくるのです。

そう(おも)(こと)によって、余計(よけい)(こと)には一切(いっさい)()(まわ)される(こと)なく、「(まこと)(ほう)()たい」と()一念(いちねん)で、毎日(まいにち)毎日(まいにち)唱題(しょうだい)(たの)く、すがすがしい(こころ)で、(こころ)()くまで(とな)られる自分(じぶん)()って()たのです。

 

そして2(ねん)昭和(しょうわ)56(ねん)3(がつ)13(にち)御講(おこう)(よる)です。 

(いえ)同志(どうし)(とも)勤行(ごんぎょう)唱題中(しょうだいちゅう)突然(とつぜん)仏壇(ぶつだん)()本尊(ほんぞん)(さま)(ところ)からすごい(ひかり)()のです。

 

(わた)しは(おも)(うし)(たお)れそうになったくらいでした。これは(そば)同志(どうし)もおりましたので(とも)()おります。

この()契機(けいき)(わた)しの生命(せいめい)状態(じょうたい)(きゅう)()(はじ)ました。

相次(あい つ )不思議(ふしぎ)現証(げんしょう)現証(げんしょう)不思議(ふしぎ)体験(たいけん)(まさ)法界(ほうかい)存在(そんざい)を、()()りと()()って(おし)られ(はじ)たのです。

これは(あと)になって「(ほう)(かた)」から(おし)られた(こと)なのですが、あの(とき)仏壇(ぶつだん)から(はっ)(ひかり)()本尊(ほんぞん)(さま)からではなく、『其貴(そなた)生命(せいめい)から(はっ)たものである』と()れたのです。それが、()本尊(ほんぞん)(さま)という自分(じぶん)(こころ)(うつ)名鏡(めいきょう)反射(はんしゃ)して、自分(じぶん)(ほう)(かえ)てきたものではないか、とも推測(すいそく)されます。

これは、どういう(こと)()わかりませんが、その(とき)法華経(ほけきょう)(ほう)(かた)」…、つまり(わた)(たち)(まも)っていて(くだ)(かた)でさえ(すご)(ひかり)で、とても(まわ)にはいられない状態(じょうたい)であったともおっしゃられていました。

本当(ほんとう)不思議(ふしぎ)(みょう)(こと)です。自分(じぶん)から(はっ)たもので自分(じぶん)(おどろ)とは…。

 

そして10(ねん)色々(いろいろ)法華経(ほけきょう)(ほう)]からの(きび)くも慈悲(じひ)あふれる()指導(しどう)()指示(しじ)()協力(きょうりょく)があったればこそ、(いま)自分(じぶん)があるのだという(こと)を、(あつ)感謝(かんしゃ)(もう)()(いま)まで(わた)しが数々(かずかず)体験(たいけん)した(なか)から(もっと)印象(いんしょう)(のこ)ている霊界(れいかい)法界(ほうかい)体験(たいけん)のひとつを「天上編(てんじょうへん)」と(だい)して紹介(しょうかい)(いた)ましょう。

 平成(へいせい)2(ねん)2(がつ)2(ふつか