天上編⑨

報恩抄(ほうおんしょう)

法華経(ほけきょう)()むると(いえど)(かえ)法華(ほっけ)(こころ)(ころ)(とう)云云(うんぬん) 此等(これら)をもってをも()うに法華経(ほけきょう)をよみ讃嘆(さんだん)する人々(ひとびと)(なか)無間(むけん)地獄(じごく)(おお)()るなり』とありますように、

(げん)(わた)(たち)法華経(ほけきょう)修行(しゅぎょう)していながら、かえって(ほう)(こころ)(ころ)してしまっているような(こと)もあるのではないのでしょうか。

 

(ほう)(かた)からは、

妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)人の(ひと  みち)南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)成仏(じょうぶつ)への(みち)』とも()れております。

(わた)(たち)南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)とお(とな)している(もの)は、やはり人の道(ひと  みち)()ものも()心得(こころえ)()べき努力(どりょく)をして()なければ、本当(ほんとう)(おし)…つまり、南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)になって()(こと)(むずか)いのではないのでしょうか。

 

昭和(しょうわ)62(ねん)4(がつ)4(よっか)(わた)しの日記(にっき)に、このような(こと)(しる)れております。

(わた)(たち)(まこと)(ほう)唱行(しょうぎょう)する同志(どうし)グループ(中略(ちゅうりゃく))は、環境(かんきょう)はそれぞれ(こと)っております。

しかし、()本尊(ほんぞん)(さま)絶対(ぜったい)(あお)(きび)(なか)でも信仰(しんこう)(たい)ては何時(いつ)(きよ)らかな(こころ)と、素直(すなお)さを(けっ)(わす)(こと)なく、(こころ)をひとつにして、目標(もくひょう)()って頑張(がんば)っており、(かなら)そこから、すべてが(ひら)けて()(こと)確信(かくしん)しております。

(みな)さん(たの)(かた)ばかりです。(なか)には遠慮(えんりょ)会釈(えしゃく)もなく、「大聖人(だいしょうにん)(さま)にお()したい、お()したい。(ゆめ)でもいいから、お()したい」などと、もったいない(こと)()れる、(たの)しい(かた)もおられます。

そんな私達(わたしたち)同志(どうし)グループに、もったいなくも大聖人(だいしょうにん)(さま)より()金言(きんげん)(いただ)ました。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)より()金言(きんげん)賜う(たま )

何時(いつ)一緒(いっしょ)にいるではないか 剛さ(つよ )(やさ)(いつく)しみ (はぐく)(こころ)日蓮(にちれん)(こころ)

それをひとつにした(とき) 日蓮(にちれん)()ておりますのじゃ ()りましたかな』

(なん)()有難(ありがた)()言葉(ことば)でしょうか。(わた)(たち)のような(もの)本当(ほんとう)有難(ありがた)くて()()()まる(おも)です。大聖人(だいしょうにん)(さま)何時(いつ)も、このように慈悲(じひ)御心(おこころ)(わた)(たち)()いらっしゃって(くだ)るのです。

 

この大聖人(だいしょうにん)(さま)御心(おこころ)にお(こた)できる自分(じぶん)(たち)になって()(うえ)()いても

何時(いつ)も「謗法(ほうぼう)」なく、渇仰於佛(かつごうおぶつ)心懐恋慕(しんねんれんぼ)(こころ)御仏(みほとけ)慕う(した )(こころ))で、日々(ひび)月々(つきづき)精進(しょうじん)して()(こと)が、やがて成仏(じょうぶつ)(みち)へとつながって()(こと)を「(ほう)(かた)」から()指導(しどう)(いただ)ました。

 

(わた)しが何時(いつ)も、このように法華経(ほけきょう)(ほう)〕の(かた)からの()指導(しどう)(いただ)()(こと)は、普通(ふつう)ではとても(かんが)られない(こと)で、(しん)られないと()のが本当(ほんとう)かも()ません。

ですから、(わた)しが人々(ひとびと)法華経(ほけきょう)(みちび)(ため)に、(やまい)(くる)んでいる(ひと)、または、そうでない(ひと)にでも、(ほう)御力(おちから)御見(おみ)せでもしようものなら、正法(しょうぼう)(ぎょう)じていると()てる(ひと)でさえも、()通力(つうりき)などと()批判(ひはん)される(かた)もいると(おも)ますが、それは無理(むり)もない(こと)なのです。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)は「総勘文(そうかんもん)(しょう)」に

(ことば)()ふは (こころ)(おも)ひを(ひび)かして(こえ)(あらわ)はすを()ふなり。凡夫(ぼんぷ)()(こころ)(まよ)ふて()らず(さと)らざるなり。(ほとけ)(これ)(さと)(あらわ)はして神通(じんづう)()づくるなり。神通(じんづう)とは(たましい)一切(いっさい)(ほう)(つう)(さわ)()きなり。()自在(じざい)神通(じんづう)一切(いっさい)有情(うじょう)(こころ)にて()なり。

(ゆえ)狐狸(こり)分々(ぶんぶん)(つう)(げん)ずること、(みな)(こころ)(たましい)分々(ぶんぶん)(さと)なり。()(こころ)一法(いっぽう)より国土(こくど)世間(せけん)出来(しゅったい)(こと)なり。一代(いちだい)聖教(しょうぎょう)とは()(こと)()たるなり。(これ)(まん)(せん)法蔵(ほうぞう)とは()ふなり。

(これ)(みな)悉く(ことごと  )一人(いちにん)身中(しんちゅう)法門(ほうもん)にて()なり。(しか)れば八(まん)(せん)法蔵(ほうぞう)は、()()一人(いちにん)日記(にっき)文書(もんじょ)なり。()(まん)法蔵(ほうぞう)()心中(しんちゅう)(はら)(たも)(いだ)(たも)たり。

()身中(しんちゅう)(こころ)(もっ)(ほとけ)(ほう)浄土(じょうど)とを、()()より(ほか)(おも)(ねが)(もと)むるを(まよ)ひとは()ふなり。()(こころ)善悪(ぜんなく)(えん)()ひて善悪(ぜんなく)(ほう)(つく)()だぜるなり。』(もう)されていらっしゃる(とお)

神通(じんづう)とは(みな)(こころ)(さと)だと(もう)されており、自在(じざい)神通(じんづう)とは一切(いっさい)有情(うじょう)のだともおっしゃられております。

 

ただ凡夫(ぼんぷ)自分(じぶん)(こころ)(まよ)ていて、これを()(こと)(さと)(こと)出来(でき)ないだけのものであり、(ほとけ)(ほう)浄土(じょうど)(みな)(じつ)自分(じぶん)(こころ)(なか)におさまっているもので、これを(ほか)(もと)(こと)(まよ)だとおっしゃられているのです。