報恩抄に
『法華経を讃むると雖も還って法華の心を死す等云云 此等をもってをもうに法華経をよみ讃嘆する人々の中に無間地獄は多く有るなり』とありますように、
現に私くし達は法華経を修行していながら、かえって法の心を殺してしまっているような事もあるのではないのでしょうか。
法の方からは、
『妙法蓮華経は人の道・南無妙法蓮華経は成仏への道』とも言われております。
私くし達、南無妙法蓮華経とお唱えしている者は、やはり人の道と言うものも良く心得て行くべき努力をして行かなければ、本当の教え…つまり、南無妙法蓮華経になって行く事は難しいのではないのでしょうか。
昭和62年4月4日の私くしの日記に、このような事が記されております。
私くし達、真の法を唱行する同志グループ(中略)は、環境はそれぞれ異なっております。
しかし、御本尊様を絶対と仰ぎ、厳しい中でも信仰に対しては何時も清らかな心と、素直さを決して忘れる事なく、心をひとつにして、目標に向かって頑張っており、必ずそこから、すべてが開けて来る事を確信しております。
皆さん楽しい方ばかりです。中には遠慮会釈もなく、「大聖人様にお逢いしたい、お逢いしたい。夢でもいいから、お逢いしたい」などと、もったいない事を言われる、頼もしい方もおられます。
そんな私達、同志グループに、もったいなくも大聖人様より御金言を頂きました。
(大聖人様より御金言を賜う)
『何時も一緒にいるではないか 剛さ優しさ慈しみ 育む心が日蓮が心
それをひとつにした時 日蓮は生きておりますのじゃ 分かりましたかな』
何と言う有難い御言葉でしょうか。私くし達のような者に本当に有難くて身の引き締まる思いです。大聖人様は何時も、このように慈悲の御心で私くし達を見ていらっしゃって下さるのです。
この大聖人様の御心にお答えできる自分達になって行く上に於いても
『何時も「謗法」なく、渇仰於佛・心懐恋慕の心(御仏を慕う心)で、日々に月々に精進して行く事が、やがて成仏の道へとつながって行く』事を「法の方」から御指導を頂きました。
私くしが何時も、このように法華経〔法〕の方からの御指導を頂くと言う事は、普通ではとても考えられない事で、信じられないと言うのが本当かも知れません。
ですから、私くしが人々を法華経へ導く為に、病で苦しんでいる人、または、そうでない人にでも、法の御力を御見せでもしようものなら、正法を行じていると言ってる人でさえも、魔の通力などと言って批判される方もいると思いますが、それは無理もない事なのです。
大聖人様は「総勘文抄」に
『言と云ふは 心の思ひを響かして声に顕はすを云ふなり。凡夫は我が心に迷ふて知らず覚らざるなり。仏は之を悟り顕はして神通と名づくるなり。神通とは神の一切の法に通じて碍り無きなり。此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。
故に狐狸も分々に通を現ずること、皆心の神の分々の悟りなり。此の心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此を八万四千の法蔵とは云ふなり。
是皆悉く一人の身中の法門にて有るなり。然れば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記文書なり。此の八万の法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり。
我が身中の心を以って仏と法と浄土とを、我が身より外に思ひ願ひ求むるを迷ひとは云ふなり。此の心が善悪の縁に値ひて善悪の法をば造り出だぜるなり。』と申されていらっしゃる通り、
神通とは皆心の悟りだと申されており、自在の神通とは一切の有情のだともおっしゃられております。
ただ凡夫は自分の心に迷っていて、これを知る事も悟る事も出来ないだけのものであり、仏も法も浄土も皆、実は自分の心の中におさまっているもので、これを外に求める事が迷いだとおっしゃられているのです。