ある体験から②

(わた)しがある(とき)(わたし)友人(ゆうじん)(とお)て、法華経(ほけきょう)(ほう)〕の(かた)から、メッセージを(いただ)、その(なか)

(はな)吹雪(ふぶき) おくり()れた()姿(すがた) (わす)(おこ)うは 地獄(じごく)への片道(かたみち)キップ」と()言葉(ことば)(いただ)(こと)がございました。

 

(はな)吹雪(ふぶき)()のは天上界(てんじょうかい)(こと)であり、その(はな)吹雪(ふぶき)()(なか)天上界(てんじょうかい)人々(ひとびと)(おく)られて、(いさ)んでこの()(ほう)(ひろ)める(ため)修行(しゅぎょう)(ため)(たび)()()のに、その使命(しめい)(わす)て、(ほう)()てもそれを実行(じっこう)もせず、(ただ)(おのれ)欲望(よくぼう)のみに()勝手(かって)()()をしているならば、それは地獄(じごく)への片道(かたみち)切符(きっぷ)()っているようなものだと()(こと)でしょう。非常(ひじょう)(きび)いお言葉(ことば)です。その(ほか)にも沢山(たくさん)(きび)いメッセージも(いただ)ております。仏法(ぶっぽう)()ものは、そんな(あま)ものではないのです。

 

この(かた)などは、かなりの(いのち)持主(もちぬし)で、(なに)使命(しめい)()地上(ちじょう)()れたものと推察(すいさつ)(いた)ますが、それを(わす)てしまい、本来(ほんらい)自分(じぶん)見失(みうしな)っているのでしょう。(はや)気付(きづ)いてほしいと(おも)ます。せっかく天上界(てんじょうかい)から()()()のに、また(した)(ぎゃく)(もど)では、あまりにも可哀想(かわいそう)です。

また現在(げんざい)(いぬ)()まれていても過去(かこ)人間(にんげん)だったと()(こと)(たくさん)ございます。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)は、

過去(かこ)にねずみと()まれ ねこに()われた(とき) かえると()まれ ヘビに()われた(とき) (また)ハトと()まれ(たか)()われた(とき)には…』(趣意(しゅい))どんな(おも)で、あったかと()れておられます。

 

このように人間(にんげん)は、(ふたた)(かなら)人間(にんげん)()()れるとは(かぎ)ません。現在(げんざい)人間界(にんげんかい)には家庭(かてい)()色々(いろいろ)生活(せいかつ)(いとな)んでおられる(おお)のその(なか)にも、医者(いしゃ)の「()臨終(りんじゅう)です」の一言(ひとこと)で、もう(ふたた)人間界(にんげんかい)(せい)()(こと)出来(でき)なくなってしまう(ひと)もたくさんおられるのです。

また、もし()れて()れたとしても、その(かん)我々(われわれ)想像(そうぞう)(ぜっ)るような(くる)みの世界(せかい)地獄(じごく)(かい)」で何百年(なんびゃくねん)何千年(なんぜんねん)()(なが)(あいだ)反省(はんせい)させられ(くる)んだ(あと)、やっと(ふたた)人間界(にんげんかい)()(こと)(ゆる)れ、(ほとけ)になる(ため)修行(しゅぎょう)のやり(なお)をさせて(いただ)(かた)もおりますが、それもまた、(みじか)(あいだ)勝負(しょうぶ)()ず、それで()らなければ、(あと)はどうなってしまうかはわからないのです。

しかし(ふたた)人間界(にんげんかい)()まれ()()で、約束(やくそく)して()(こと)をすぐに(わす)物心(ものごころ)がついてくれば、また(おのれ)欲望(よくぼう)にとらわれて、一生(いっしょう)をむなしく()ってしまうのです。(なん)儚い(はかな  )ものでしょうか。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)()在世(ざいせ)(ころ)にも人々(ひとびと)(みな)正法(しょうぼう)(そむ)大聖人(だいしょうにん)(さま)迫害(はくがい)されたり、誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)(とう)悪口(わるぐち)()たりと、色々(いろいろ)悪行(あくぎょう)大聖人(だいしょうにん)(さま)にされました。

しかし大聖人(だいしょうにん)(さま)は「(いま)はまだ()後生(ごしょう)(こと)(おも)不憫(ふびん)(おも)」(趣意(しゅい))と、そのような悪人(あくにん)にも慈悲(じひ)御心(おこころ)をかけて(くだ)っておられるのです。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)御仏(みほとけ)であらせられますから、三世(さんぜ)過去(かこ)現在(げんざい)未来(みらい))をすべて見通(みとお)されておられます。(わた)しが、このような(こと)()ばさぞかし、(わたし)何様(なにさま)のように(おも)れるかも()ませんが、そうではなく、(わた)しは、()ていながら「死後(しご)世界(せかい)法界(ほうかい))」を実際(じっさい)に[(ほう)]に(みちび)れ、()(いただ)たからなのです。「(うえ)世界(せかい)」も「(した)世界(せかい)」も案内(あんない)してくださいました。これは、とても普通(ふつう)(かた)には(しん)られない(こと)だと(おも)ますが、[(ほう)] に(ちか)って本当(ほんとう)なのです、と(もう)()ます。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)真実(しんじつ)(ほう)唱行(しょうぎょう)する(もの)であるならば、この(くう)次元(じげん)(なか)大聖人(だいしょうにん)(さま)真実(しんじつ)(ほう)が、実際(じっさい)存在(そんざい)している(こと)自分(じぶん)体験(たいけん)(とう)(とお)て、(だい)なり(しょう)なり()理解(りかい)しておられる(こと)(おも)ますので、ここで(ひと)つ、私達(わたしたち)、グループ(いん)皆様(みなさま)素晴(すば)らしい体験(たいけん)()紹介(しょうかい)させて(いただ)たいと(おも)ます。(中略(ちゅうりゃく)

 

私達(わたしたち)のグループと()ても、それぞれ支部(しぶ)(こと)っております。お(てら)(ちが)ていても、大聖人(だいしょうにん)(さま)正法(しょうぼう)(しん)(こころ)(みな)(おな)(とも)(せっ)()(たく)()して精進(しょうじん)して()う、と()(たの)しい(かた)(たち)ばかりです。(中略(ちゅうりゃく)

 

人間(にんげん)は、実際(じっさい)に五(かん)()たり・()り・(かん)たりしたものを自分(じぶん)(あたま)(かんが)て、判断(はんだん)出来(でき)範囲(はんい)のものしか、(しん)(こと)出来(でき)ない…それが人間(にんげん)なのです。しかし、その程度(ていど)の「範囲(はんい)」というのは本当(ほんとう)(ちい)なもので、我々(われわれ)生命(せいめい)()ている能力(のうりょく)一部(いちぶ)()ません。大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)は、そんな(ちい)なものではないのです。宇宙(うちゅう)(だい)なのです。

ですから、そんな(ちい)(ところ)(ちい)範囲(はんい)(とど)っていては、とても成仏(じょうぶつ)などは(おも)もよらないのです。

大聖人(だいしょうにん)(さま)真実(しんじつ)仏法(ぶっぽう)修行(しゅぎょう)して()(もの)生命(せいめい)境界(きょうがい)は、やがては大宇宙(だいうちゅう)自由(じゆう)にかけ(めぐ)るような…そんな境界(きょうがい)になる(こと)修行(しゅぎょう)目的(もくてき)ではなかったのでしょうか。

(ただ)目先(めさき)物質(ぶっしつ)(てき)(もの)や、現世(げんぜ)利益(りやく)のみを()っかけての信心(しんじん)では、一生(いっしょう)かかっても真実(しんじつ)(ほう)()見出(みいだ)して()(こと)出来(でき)ないと()(こと)でしょう。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)

南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)(とな)るものは一日(いちにち)(うち)霊山(りょうぜん)何回(なんかい)往復(おうふく)している」(趣意(しゅい))とおっしゃられています。きっと、その(ひと)境界(きょうがい)(こと)(おお)になっていらっしゃるのでしょう。

 

また、[日女(にちにょ)御前(ごぜん)御返事(ごへんじ)]には、

()()本尊(ほんぞん)(まった)余所(よそ)(もと)むる(こと)なかれ。(ただ)我等(われら)衆生(しゅじょう)法華経(ほけきょう)(たも)南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)(とな)胸中(きょうちゅう)肉団(にくだん)におはしますなり。』とも(おお)です。

 

つまり、自分(じぶん)(こころ)(そく)(てん)であり、(てん)(そく)(こころ)であるという(こと)です。

自分(じぶん)(こころ)次第(しだい)(てん)(うご)が、どのようにでも(うご)という(こと)です。自分(じぶん)信仰(しんこう)(しん)によってすべてが()ってしまうという(こと)なのです。