私くしがある時、私の友人を通して、法華経〔法〕の方から、メッセージを頂き、その中で
「花吹雪 おくり出された其の姿 忘れて行なうは 地獄への片道キップ」と言うお言葉を頂いた事がございました。
花吹雪と言うのは天上界の事であり、その花吹雪の散る中を天上界の人々に送られて、勇んでこの世に法を広める為、修行の為に旅立って来たのに、その使命を忘れて、法を聞いてもそれを実行もせず、唯、己の欲望のみに生き、勝手な振る舞いをしているならば、それは地獄への片道切符を買っているようなものだと言う事でしょう。非常に厳しいお言葉です。その他にも沢山の厳しいメッセージも頂いております。仏法と言うものは、そんな甘いものではないのです。
この方などは、かなりの命の持主で、何かの使命を持って地上に出されたものと推察致しますが、それを忘れてしまい、本来の自分を見失っているのでしょう。早く気付いてほしいと思います。せっかく天上界から出て来たと言うのに、また下に逆戻りでは、あまりにも可哀想です。
また現在、犬と生まれていても過去は人間だったと言う事も沢山ございます。
大聖人様は、
『過去にねずみと生まれ ねこに追われた時 かえると生まれ ヘビに追われた時 又ハトと生まれ鷹に追われた時には…』(趣意)どんな思いで、あったかと言われておられます。
このように人間は、再び必ず人間に生まれ変われるとは限りません。現在人間界には家庭を持ち、色々な生活を営んでおられる多くのその中にも、医者の「御臨終です」の一言で、もう再び人間界に生を受ける事の出来なくなってしまう人もたくさんおられるのです。
また、もし生まれて来られたとしても、その間、我々の想像を絶するような苦しみの世界「地獄界」で何百年・何千年と言う長い間、反省させられ苦しんだ後、やっと再び人間界に出る事を許され、仏になる為の修行のやり直しをさせて頂ける方もおりますが、それもまた、短い間の勝負に過ぎず、それで決まらなければ、後はどうなってしまうかはわからないのです。
しかし再び、人間界に生まれて来たら来たで、約束して来た事をすぐに忘れ、物心がついてくれば、また己の欲望にとらわれて、一生をむなしく終わってしまうのです。何と儚いものでしょうか。
大聖人様の御在世の頃にも人々は皆、正法に背き、大聖人様を迫害されたり、誹謗中傷等の悪口を言ったりと、色々な悪行を大聖人様にされました。
しかし大聖人様は「今はまだ良いが後生の事を思えば不憫に思う」(趣意)と、そのような悪人にも慈悲の御心をかけて下さっておられるのです。
大聖人様は御仏であらせられますから、三世(過去・現在・未来)をすべて見通されておられます。私くしが、このような事を言えばさぞかし、私が何様のように思われるかも知れませんが、そうではなく、私くしは、生きていながら「死後の世界(法界)」を実際に[法]に導かれ、見せて頂いたからなのです。「上の世界」も「下の世界」も案内してくださいました。これは、とても普通の方には信じられない事だと思いますが、[法] に誓って本当なのです、と申し上げます。
大聖人様の真実の法を唱行する者であるならば、この空の次元の中に大聖人様の真実の法が、実際に存在している事を自分の体験等を通して、大なり小なり御理解しておられる事と思いますので、ここで一つ、私達、グループ員の皆様の素晴らしい体験を御紹介させて頂きたいと思います。(中略)
私達のグループと言っても、それぞれ支部は異なっております。お寺は違っていても、大聖人様の正法を信ずる心は皆同じ、共に切磋琢磨して精進して行こう、と言う頼もしい方達ばかりです。(中略)
人間は、実際に五感で聞いたり・見たり・感じたりしたものを自分の頭で考えて、判断出来る範囲のものしか、信ずる事が出来ない…それが人間なのです。しかし、その程度の「範囲」というのは本当に小さなもので、我々の生命が持っている能力の一部に過ぎません。大聖人様の仏法は、そんな小さなものではないのです。宇宙大なのです。
ですから、そんな小さな所、小さな範囲で留まっていては、とても成仏などは思いもよらないのです。
大聖人様の真実の仏法を修行して行く者の生命の境界は、やがては大宇宙を自由にかけ巡れるような…そんな境界になる事が修行の目的ではなかったのでしょうか。
唯、目先の物質的な物や、現世利益のみを追っかけての信心では、一生かかっても真実の法を知り、見出して行く事は出来ないと言う事でしょう。
大聖人様は
「南無妙法蓮華経と唱えるものは一日の内に霊山を何回も往復している」(趣意)とおっしゃられています。きっと、その人の境界の事を仰せになっていらっしゃるのでしょう。
また、[日女御前御返事]には、
『此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。』とも仰せです。
つまり、自分の心=即=天であり、天=即=心であるという事です。
自分の心次第で天の動きが、どのようにでも動くという事です。自分の信仰心によってすべてが決まってしまうという事なのです。