自称〇の正体

()(ひと)(こころ)見透(みす)かしているのか、非常(ひじょう)(たく)です。ある(とき)(かみ)自称(じしょう)する(もの)がメッセージを(つた)てきました。それは本当(ほんとう)(かみ)だと(おも)てしまうようなものでしたが、その正体(しょうたい)()でした。

発心(ほっしん)する(まえ)当時(とうじ)(わたし)は、(あや)(しん)そうになったものの、(とも)同席(どうせき)していた正法(しょうぼう)信仰(しんこう)する〇〇さんが見破(みやぶ)ってくれたおかげで、(だま)されずにすみました。プロ(?)詐欺師(さぎし)顔負(かおま)けの(だま)()りで、恐怖感(きょうふかん)微塵(みじん)(かん)ず、納得(なっとく)してしまう(ほど)耳触(みみざわ)りのよいものでした。

  (かんが)てみますと、人間(にんげん)(だま)し、(よこしま)(みち)(さそ)()もうとする()であれば、()だと(さと)られないように(たく)にしかけてくるのは、当然(とうぜん)だと()ます。

 

私達(わたしたち)は、(どく)によって(にご)(みず)であれば、簡単(かんたん)()き、(けっ)()(こと)はしませんが、透明(とうめい)(みず)(もう)(どく)数滴(すうてき)()ぜたようなものであれば、なかなか()くことはできません。

 

それを()かないままに()(つづ)け、(さら)(すこ)ずつ(どく)()やされることによって味覚(みかく)麻痺(まひ)し、やがて身体(からだ)(むしば)まれていきます。(さら)(だま)された(もの)がもし(おろ)(こころ)()っていれば、それをきっかけに新興(しんこう)宗教(しゅうきょう)をたちあげたり、「(わたし)神仏(しんぶつ)()()りなのである」(など)自称(じしょう)して、()神仏(しんぶつ)だと(おも)()だまま(よこしま)(みち)へ、本人(ほんにん)のみならず(おお)人々(ひとびと)をも道連(みちづ)れにしていってしまうのかも()ません。これは、(かみ)以外(いがい)自称(じしょう)していても、(だま)される可能性(かのうせい)からすれば同様(どうよう)だと()えるでしょう。