法をみつめて ①

平成(へいせい)9(ねん)2(がつ)15(にち)(ころ)から、(わた)しの心臓(しんぞう)調子(ちょうし)があまり()ありません。

一分間(いっぷんかん)3(かい)(やす)でしまいます。これはどういう(こと)()()りませんが、医者(いしゃ)()もらっても、心臓(しんぞう)正常(せいじょう)()れます。(じつ)不思議(ふしぎ)(こと)です。

「いよいよ(かえ)(とき)()のかな」そんな(こと)(かんが)()した。毎日(まいにち)毎日(まいにち)(なん)なく憂鬱(ゆううつ)(あたま)(おも)気力(きりょく)まで()なってくきています。どうせ腐り(くさ )()(いま)()(なか)ですから、あまり(なが)(とど)りたいとは(おも)ませんが、一体(いったい)どういう(こと)なのでしょうか…。

(いま)(かえ)てしまったら大聖人(だいしょうにん)(さま)との約束(やくそく)()(こと)出来(でき)ませんし、それでは自分(じぶん)使命(しめい)(わす)(こと)とまったく(おな)(こと)になってしまいます。

昭和(しょうわ)60(ねん)10(がつ)10(とうか)(わた)しの日記(にっき)10(がつ)6(むいか)(よる)勤行(ごんぎょう)(とき)法華経(ほけきょう)(ほう)〕の(かた)から(いただ)たお言葉(ことば)()れであります。

 

10(がつ)6(むいか)(よる)法華経(ほけきょう)(かた)から()言葉(ことば)(いただ)ました)

大聖人(だいしょうにん)(さま)()尊顔(そんがん)(はい) 信力(しんりき)行力(ぎょうりき)(ふか)め、仏力(ぶつりき)法力(ほうりき)により民衆(みんしゅう)(すく)()(こと)使命(しめい)なり。眼前(がんぜん)にて約束(やくそく)した(こと) (わす)(わけ)ではあるまいな。』(昭和(しょうわ)60(ねん)10(がつ)10(とうか)

そして、(わたし)(わざ)(たい)ても色々(いろいろ)()指導(しどう)して(くだ)り、(つぎ)(さま)名前(なまえ)まで()(くだ)いました。

自然(じねん)道場(どうじょう)とするが()かろう』(昭和(しょうわ)60(ねん)10(がつ)10(とうか)

 

このような()言葉(ことば)(いただ)ていながら、人間(にんげん)(とき)として信心(しんじん)をしていながら(おろ)(こころ)()()(こと)があります。だから凡夫(ぼんぷ)()のでしょう。

()(がた)人身(じんしん)()()(がた)正法(しょうぼう)にめぐり()、この(うえ)なんの不足(ふそく)があるのでしょうか。

所詮(しょせん)この()修行(しゅぎょう)道場(どうじょう)(くる)(こと)()(まえ)、その(なか)にまた(よろこ)もあるのでしょう。

もっともっと()自分(じぶん)()(なお)反省(はんせい)するべきところは反省(はんせい)し、どこが間違(まちが)っているのか、もう一度(いちど)自分(じぶん)(ただ)()べきだと(おも)ました。

正信(しょうしん)目覚(めざ)めたとは()え、(わた)しは、もうこんな(こと)20(ねん)(かん)もやっているのです。ですから何度(なんど)()()っても(ほとけ)()れず六道(ろくどう)輪廻(りんね)しているのですね。

(わた)しも「過去世(かこせ)三世(さんぜ)」くらいまでは()っておりますが、何度(なんど)()()っても(いま)のところでだめなのかも()ません。ですから修行(しゅぎょう)のやり(なお)で、また人間界(にんげんかい)()れて()いるのでしょうね。仏法(ぶっぽう)は、そんな(あま)ものではありませんから「霊山(りょうぜん)目指(めざ)す」と()(こと)は、本当(ほんとう)大変(たいへん)(こと)ですけれど頑張(がんば)ります。

 

平成(へいせい)9(ねん)3(がつ)15(にち)法華経(ほけきょう)(ほう)〕の(かた)より()言葉(ことば)(いただ)ました。

この()(かた)(わた)しが正信(しょうしん)目覚(めざ)めた4(ねん)()、(昭和(しょうわ)58(ねん)くらいから、(わた)しに(たい)何時(いつ)()指導(しどう)(くだ)御方(おかた)で、もちろん大聖人(だいしょうにん)(さま)主師親(しゅししん)三徳(さんとく)をお(そな)(くだ)我々(われわれ)(だい)恩師(おんし)ではございますが、それとは(べつ)(わた)しを御導(おみちび)(くだ)います。

この御方(おかた)(わた)しの過去(かこ)()()(しょう)(さま)でしょうか。自分(じぶん)(おや)のような気持(きも)ちで御慕い(おした )(もう)()ているのですが、一体(いったい)どういう御方(おかた)なのかは()うに(かえ)てみなければ御逢(おあ)する(こと)出来(でき)ませんが、(わた)しはそれを(たの)みに一生(いっしょう)懸命(けんめい)精進(しょうじん)して()つもりです。

 

法華経(ほけきょう)(ほう)〕の御方(おかた)より  平成(へいせい)9(ねん)3(がつ)15(にち)()〕)

(とし)(とも)(かだら)(おとろ)()がたいものじゃ。これも自然(しぜん)のならいで仕方(しかた)のない(こと)よのう。適度(てきど)(かだら)()しと()(もの)には、充分(じゅうぶん)()(くば)りなされ。酢酸(さくさん)()りなくなると()(にご)でのう。(あさ)梅干(うめぼ)しは(かなら)(しょく)ると()ぞ。

(まめ)(さかな)(かい)野菜(やさい)根菜(こんさい)(やま)(うみ)田畑(たはた)でとれた(もの)上手(じょうず)毎日(まいにち)とる(こと)じゃ。自然(しぜん)()(もの)は、自然(しぜん)()(もの)(くち)にし、血肉(ちにく)とするのじゃ。太陽(たいよう)(めぐ)()成長(せいちょう)し、自然(しぜん)(なか)(はぐく)我々(われわれ)(とも)成仏(じょうぶつ)(むか)

(しょく)とは()ど、おろそかにしてはならぬぞ。(りょう)(おお)()らぬ、平均(へいきん)にのう。(なが)らえてもらわねばならぬからの。元気(げんき)での。

心臓(しんぞう)がドキドキするのではなく、(むね)筋肉(きんにく)がピクピクしているのであろう。(かんが)すぎたり心配(しんぱい)しすぎたりして、筋肉(きんにく)痙攣(けいれん)()すのであろう。あまり()をまわし()るでないわ。よいな、(かえ)ますぞ。』

 

法華経(ほけきょう)(ほう)〕の御方(おかた)より 平成(へいせい)9(ねん)3(がつ)19(にち)(すい)〕)

日々(ひび)のお(つと)(こと)で、(すこ)(くわ)えたき()がございます。

相構(あいかま)えて(おこ)うは当然(とうぜん)(こと)ではありますが、(あさ)のお(つと)一日(いちにち)(はじ)りゆえ、(すこ)(かろ)かな旋律(せんりつ)(ぎょう)てみては如何(いかが)なものかと(おも)ます。

(ゆう)べの(とき)同様(どうよう)明日(あす)(つづ)延長(えんちょう)として、自然(しぜん)(なか)一体(いったい)()し、無事(ぶじ)(のぞ)自然(しぜん)一刻(いっこく)一刻(いっこく)旋律(せんりつ)刻ん(きざ  )でおります。自然(しぜん)旋律(せんりつ)同化(どうか)することが肝要(かんよう)かと(ぞん)ます。

儀式(ぎしき)(とき)(おごそ)さ・(こころ)()必要(ひつよう)ですが、おのずと(しつ)()っております。

()宝前(ほうぜん)端座(たんざ)するその気持(きも)ちには()わりありませんが、(あさ)心良(こころよ)気分(きぶん)一日(いちにち)稼動(かどう)することが最善(さいぜん)(おも)れます。』

 

法華経(ほけきょう)(ほう)〕の御方(おかた)より 平成(へいせい)9(ねん)3(がつ)20(はつか)(もく)〕)

少々(しょうしょう)(もう)()たき()()(そうろう)これなり。朝夕(ちょうせき)(つと)(けん)にて(まこと)(もう)()にくき(そうろう)(こと)なれども、儀式(ぎしき)(こころ)(がま)えにて(おこ)なう(ぎょう)(もっと)なれど、一日(いちにち)(はじ)として(ぎょう)じる(ぎょう)にては天地(てんち)旋律(せんりつ)にずれ()候事(そうろうこと)少々(しょうしょう)()ず。身体(からだ)調子(ちょうし)(かんが)()()なくなり(そうろう)ゆえこれなり。

これに()妙久(たえひさ)(なが)られて()ねばならぬ そなたには、必要(ひつよう)存知(ぞんじ)(もう)()(そうろう)

長寿(ちょうじゅ)(ねご)()(もの)は、自然(しぜん)(なが)冥合(みょうごう)(とも)(はげ)しおうて精進(しょうじん)なされ。』

 

三人(さんにん)(ほう)方々(かたがた)()言葉(ことば)(いただ)ました。