御書に
『日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。
経に云わく「我久遠より来是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。』
と言う御金言がございます。
私達が今生で題目を唱えて一生懸命に精進して行く者は、すべて地涌の菩薩として久遠の昔、すでに大聖人様の弟子として法を学んだ者であると言う事です。
ではその同時の自分の命と今の自分の命が別であるかと言いますと、そうではなく、肉体はその時代時代によって変わりますが、命そのものは全く同じなのです。
それが長い間、度重なる輪廻により、その時々の縁に触れ、色々に心が移り変わって知らず知らずに業を積んで来てしまい、本来の自分の姿(命)と言うものを見失っているのです。
だからと言って、その時の命が無くなってしまった訳でもなく、その命は必ず自分の胸の中に冥伏されているはずです。それが煩悩と言う厚い陰妄心(無明)に被われていて、なかなか表面に出て来ないと言うのが現実です。
御書(御義口伝)に
『一念に億劫の辛労尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。』とございますように、
自分の修行次第によっては、本来の自分の姿である仏の命を必ず涌現する事が出来るとおっしゃっているのだと思います。
これが生命の本質ではないのでしょうか。
ですから、何時も私くし達は清らかな心で、余念を交えず無我の心で唱題して行く事が、天上界の仏の命と呼応して自分の命が綺麗に浄化され、やがては生きながら三千大千世界を自由におうか出来るような命、つまり菩薩・仏の境界へと変わって行く事に間違いはないと思います。
これを「無作の三身念念に起こるなり」と申されていらっしゃるのではないのでしょうか。
『何時までも有ると思うな親と金』と言う諺が有りますが、我々は『何時までも有ると思うな・この世の人生』を合言葉に、何億十万分の一か、又は無量分の一とまで言われている競争率を切り抜けて、人間として生まれ得られた幸福と、逢いがたき御本尊様に巡り合えました。
この身の幸福を絶対に逃す事なく、これを機に今度こそは成仏という最高の境界を目指して、共々に更に精進して参ろうではありませんか。
私くしは自分の体験を通して感じた事を少し述べさせて頂いたのですが、皆様には信仰して行く上に於いての何かの参考にして頂けるならば嬉しく思います。
私くしも色々と偉そうな事を申し上げてしまいましたが、天上界があれば地獄界もある。これは当然の原理であり、そう言う訳で下の界の事は、どうしても書く事が出来なくなってしまいましたので、御了承頂きたく存じます。
「花として咲ける この身は多けれど 実として秘める 花は少なし」
佐々木 雄二(仮名)
『天上編』終わり