天上編⑫ あとがき2

御書(ごしょ)

日蓮(にちれん)同意(どうい)ならば地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)たらんか。地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)にさだまりなば釈尊(しゃくそん)久遠(くおん)弟子(でし)たる(こと)あに(うたが)はんや。

(きょう)()く「(われ)久遠(くおん)より(このかた)是等(これら)(しゅ)教化(きょうけ)す」とは(これ)なり。末法(まっぽう)にして妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)の五()(ひろ)めん(もの)男女(なんにょ)はきらふべからず、(みな)地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)出現(しゅつげん)(あら)ずんば(とな)がたき題目(だいもく)なり。』

()()金言(きんげん)がございます。

 

私達(わたしたち)今生(こんじょう)題目(だいもく)(とな)一生(いっしょう)懸命(けんめい)精進(しょうじん)して()(もの)は、すべて地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)として久遠(くおん)(むかし)、すでに大聖人(だいしょうにん)(さま)弟子(でし)として(ほう)(まな)(もの)であると()(こと)です。

ではその同時(どうじ)自分(じぶん)(いのち)(いま)自分(じぶん)(いのち)(べつ)であるかと()ますと、そうではなく、肉体(にくたい)はその時代(じだい)時代(じだい)によって()りますが、(いのち)そのものは(まった)(おな)なのです。

 

それが(なが)(あいだ)度重(たびかさ)なる輪廻(りんね)により、その時々(ときどき)(えん)()色々(いろいろ)(こころ)(うつ)()って()()ずに(ごう)()()しまい、本来(ほんらい)自分(じぶん)姿(すがた)(いのち))と()ものを見失(みうしな)っているのです。

だからと()て、その(とき)(いのち)()なってしまった(わけ)でもなく、その(いのち)(かなら)自分(じぶん)(むね)(なか)冥伏(みょうぶく)されているはずです。それが煩悩(ぼんのう)()(あつ)陰妄心(いんもうしん)無明(むみょう))に(おお)われていて、なかなか表面(ひょうめん)()()いと()のが現実(げんじつ)です。

 

御書(ごしょ)御義口伝(おんぎくでん))に

一念(いちねん)億劫(おっこう)辛労(しんろう)()せば、本来(ほんらい)無作(むさ)三身(さんじん)念々(ねんねん)()るなり。所謂(いわゆる)南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)精進行(しょうじんぎょう)なり。』とございますように、

自分(じぶん)修行(しゅぎょう)次第(しだい)によっては、本来(ほんらい)自分(じぶん)姿(すがた)である(ほとけ)(いのち)(かなら)涌現(ゆげん)する(こと)出来(でき)るとおっしゃっているのだと(おも)ます。

これが生命(せいめい)本質(ほんしつ)ではないのでしょうか。

 

ですから、何時(いつ)(わた)(たち)(きよ)らかな(こころ)で、余念(よねん)(まじ)無我(むが)(こころ)唱題(しょうだい)して()(こと)が、天上界(てんじょうかい)(ほとけ)(いのち)呼応(こおう)して自分(じぶん)(いのち)綺麗(きれい)浄化(じょうか)され、やがては()ながら三千(さんぜん)大千(だいせん)世界(せかい)自由(じゆう)におうか出来(でき)るような(いのち)、つまり菩薩(ぼさつ)(ほとけ)境界(きょうがい)へと()って()(こと)間違(まちが)はないと(おも)ます。

これを「無作(むさ)三身(さんじん)(ねん)(ねん)()こるなり」と(もう)されていらっしゃるのではないのでしょうか。

 

何時(いつ)までも()(おも)(おや)(かね)』と()(ことわざ)()ますが、我々(われわれ)は『何時(いつ)までも()(おも)な・この()人生(じんせい)』を(あい)言葉(ことば)に、何億(なんおく)(まん)(ぶん)の一か、(また)無量分(むりょうぶん)の一とまで()れている競争率(きょうそうりつ)()()けて、人間(にんげん)として()まれ()れた幸福(こうふく)と、()がたき()本尊(ほんぞん)(さま)(めぐ)()えました。

この()幸福(こうふく)絶対(ぜったい)(のが)(こと)なく、これを()今度(こんど)こそは成仏(じょうぶつ)という最高(さいこう)境界(きょうがい)目指(めざ)して、共々(ともども)(さら)精進(しょうじん)して(まい)ろうではありませんか。

 

(わた)しは自分(じぶん)体験(たいけん)(とお)(かん)(こと)(すこ)()させて(いただ)たのですが、皆様(みなさま)には信仰(しんこう)して()(うえ)()ての(なに)参考(さんこう)にして(いただ)るならば(うれ)(おも)ます。

(わた)しも色々(いろいろ)(えら)うな(こと)(もう)()てしまいましたが、天上界(てんじょうかい)があれば地獄(じごく)(かい)もある。これは当然(とうぜん)原理(げんり)であり、そう()(わけ)(した)(かい)(こと)は、どうしても()(こと)出来(でき)なくなってしまいましたので、()了承(りょうしょう)(いただ)たく(ぞん)ます。

 

(はな)として()ける この()(おお)けれど ()として()る (はな)(すく)なし」 

佐々木(ささき) 雄二(ゆうじ)仮名(かめい)

天上編(てんじょうへん)()