大聖人様は、『但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず』と仰せです。利根や通力それじたいは、正邪にはまったく関係ありません。
そのような不思議な力は、一部の人が持つ特別なもののように思われますが、本来私達の生命の中には平等に秘めている用きです。それが顕れているかどうかの違いはあっても、用きそのものは私達の生命の中に秘められています。そうであれば、不思議な力の『用きじたい』に善悪の差別があるのではなく、どう用いていくかによって善にも悪にもなりえてしまう、という事ではないのでしょうか。
たとえば、『手が動く』という働きに善も悪もありませんが、手を使って人を助ける人もいれば、暴力をふるう人もいます。言葉を発する口も同様に、間違った教えを発すれば『魔の口』と化し、仏の正しい教えを発すれば『仏の口』となります。
また、『因縁果』の道理で見ますと、縁というものは、その後の結果を左右します。私達の「生命の中に秘められた用き」を『因』、「顕れた能力」を『果』としたとき、その『縁』を知る事によって、如何なる『果』であるかが見えてくるのではと思います。
偽物や見世物、或いは魔に誑かされている(そのように見せられている、騙されている)等は論外としても、霊視相談のようなもので、仮に霊視したものが当たっていた場合、どのように考えればいいのでしょうか。
そのひとつとして、『見えた事』『聞こえた事』等から導き出される判断が、果たして正しいのかどうか、という問題です。霊視もあの世も、事実としては証明されていない為、その判断基準は人ぞれぞれかと思います。そう考えますと、導き出した答えが何を基準にし、更にその基準の源がいったい何なのかを知る必要があるのではないでしょうか。
つまり、見えたり聞こえたり等が仮に当たっていたとしても、そこから導き出される答えが正しいか否かは別問題という事なのです。たとえ、どのようなものが見えたにしても、正しい判断、正しい道へと繋がらなければ、何の意味もないばかりか、それが間違ったものであれば人生にとっての大きな損害にもなりかねません。
人間は誰もが未熟です。そんな私達、未熟な人間が、正しい人生観、生命観に基づいて判断し、大切な人生を生きていくためには、その基準となる『正しい物差し』が必要になり、それが、日蓮大聖人の仏法なのです。
大聖人の教えを基準にし、正しく信仰していく事によって、自身の生命が少しずつ浄化され、仏界が湧現し、仏の智慧が自然と湧いてくるようになります。
ヒーリングとは、癒しのエネルギー等を相手に与えるものだと言われているようで、世間の中には、なんとなく体調が悪い時、気分がすぐれない時など、そういうものに頼る方がいるようです。そのヒーリングでいうところの、エネルギーとは、おそらく、『生命力』とか『気』の事を言っているのではないかと思われますが、受ける影響としてはどうなのでしょうか。
私達の生命は、時間空間等は一切関係なく、人それぞれが善くも悪くも様々に影響し合い、用き合っています。他者のエネルギーなるものを受けるという事は、それ『以外』も含めて受け入れてしまう可能性があり、相応に影響を受ける事を意味します。更に受ける側が心を開いていれば、尚更影響を受けやすくなってしまいます。これらの事から相応にリスクを秘めている事も十分に理解する必要があるのだと思います。
そもそも私達には皆、生命力が備わっており、心身共に影響を与えているのですから、ヒーリングなるものに頼るのではなく、自身の生命力を蘇生させればいいのです。(病の場合は医療による適切な治療を受けるのは言うまでもありませんが。)
大聖人の仏法を正しく信仰し・修行していく事によって、生命力が湧き上がり、自身の生命の奥底から仏の命が湧現してきます。別の言い方をすれば、大聖人の仏法は、一切の生命にとって最高究極の浄化であり、癒しなのです。
*「仏法と医学」については、こちらのページ内の動画で紹介しています。
私達は、常に様々な『縁』に触れて心を変化させています。ポジティブな気持ちでいたはずが、嫌な事が起きてネガティブな気持ちになってしまったり、不良だった子が善い友人と付き合っ ていくうちに善い子になった…等、元(因)は何であれ、『縁』はその後の結果を善くも悪くも変えていき、因果が逆転してしまう事も多いのです。
私達は、末法という濁りきった時代に生まれた『救い難き衆生』だと言われています。病に例えるならば、治し難い『心の病』であるとも言えるかも知れません。
そんな私達の『心の病』を治すには、これ以上ない『最高の薬』、病に適した薬が必要であり、『薬であれば何でも良い』という事ではありません。この最高の薬というのが日蓮大聖人の仏法なのです。
これが『縁』となり、正しく服用し続けていくことによって、『心の病』を完治した生命ともいえる『仏の境界』へと繋がっていきます。この究極の『縁』に触れ、正しく修行する事によって『成仏』という最高の『果』が得られるのです。
何にしても結局、すべての問題は、突き詰めれば皆、生命から発しています。その発生源である生命を、正しい仏道修行によって磨き、浄化し、境界を高めていくことによって、確実に正しい結果へとつながっていきます。
つまり、『臭いニオイは元から絶たなきゃダメ』と同じ道理です。