不思議な力

◆利根と通力◆

大聖人様(だいしょうにんさま)は、『(ただ)法門(ほうもん)をもて邪正(じゃしょう)をたゞすべし。利根(りこん)通力(つうりき)とにはよるべからず』と(おお)です。利根(りこん)通力(つうりき)それじたいは、正邪(せいじゃ)にはまったく関係(かんけい)ありません。

そのような不思議(ふしぎ)(ちから)は、一部(いちぶ)(ひと)()特別(とくべつ)なもののように(おも)れますが、本来(ほんらい)私達(わたしたち)生命(せいめい)(なか)には平等(びょうどう)()ている(はたら)です。それが(あらわ)れているかどうかの(ちが)はあっても、(はたら)そのものは私達(わたしたち)生命(せいめい)(なか)()られています。そうであれば、不思議(ふしぎ)(ちから)の『(はたら)じたい』に善悪(ぜんあく)差別(さべつ)があるのではなく、どう(はたら)ていくかによって(ぜん)にも(あく)にもなりえてしまう、という(こと)ではないのでしょうか。

たとえば、『()(うご)く』という(はたら)きに(ぜん)(あく)もありませんが、()使(つか)(ひと)(たす)ける(ひと)もいれば、暴力(ぼうりょく)をふるう(ひと)もいます。言葉(ことば)(はっ)(くち)同様(どうよう)に、間違(まちが)った(おし)(はっ)れば『()(くち)』と()し、(ほとけ)(ただ)(おし)(はっ)れば『(ほとけ)(くち)』となります。

 

また、『因縁果(いんねんか)』の道理(どうり)()すと、(えん)というものは、その()結果(けっか)左右(さゆう)します。私達(わたしたち)の「生命(せいめい)(なか)()られた(はたら)」を『(いん)』、「(あらわ)れた能力(のうりょく)」を『()』としたとき、その『(えん)』を()(こと)によって、如何(いか)なる『()』であるかが()てくるのではと(おも)ます。

◆霊視について◆

偽物(にせもの)()()(もの)(ある)いは()(たぶら)かされている(そのように()られている、(だま)されている)(とう)論外(ろんがい)としても、霊視(れいし)相談(そうだん)のようなもので、(かり)霊視(れいし)したものが()っていた場合(ばあい)、どのように(かんが)ればいいのでしょうか。

 そのひとつとして、『()(こと)』『()こえた(こと)(など)から(みちび)()れる判断(はんだん)が、()して(ただ)いのかどうか、という問題(もんだい)です。霊視(れいし)もあの()も、事実(じじつ)としては証明(しょうめい)されていない(ため)、その判断(はんだん)基準(きじゅん)(ひと)ぞれぞれかと(おも)ます。そう(かんが)ますと、(みちび)()(こた)えが(なに)基準(きじゅん)にし、(さら)にその基準(きじゅん)(みなもと)がいったい(なん)なのかを()必要(ひつよう)があるのではないでしょうか。

つまり、()たり聞こ(き )えたり(など)(かり)()っていたとしても、そこから(みちび)()される(こた)(ただ)しいか(いな)かは(べつ)問題(もんだい)という(こと)なのです。たとえ、どのようなものが()えたにしても、(ただ)判断(はんだん)(ただ)(みち)へと(つな)がらなければ、(なん)意味(いみ)もないばかりか、それが間違(まちが)ったものであれば人生(じんせい)にとっての(おお)きな損害(そんがい)にもなりかねません。

 

人間(にんげん)(だれ)もが未熟(みじゅく)です。そんな私達(わたしたち)未熟(みじゅく)人間(にんげん)が、(ただ)しい人生(じんせい)(かん)生命(せいめい)(かん)(もと)づいて判断(はんだん)し、大切(たいせつ)人生(じんせい)()きていくためには、その基準(きじゅん)となる『(ただ)物差(ものさ)し』が必要(ひつよう)になり、それが、日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)なのです。

 

大聖人だいしょうにんおし基準きじゅんにし、ただしく信仰しんこうしていくことによって、自身じしん生命せいめいすこしずつ浄化じょうかされ、仏界ぶっかい湧現ゆげんし、ほとけ智慧ちえ自然しぜんてくるようになります。

◆ヒーリングについて◆

ヒーリングとは、(いや)のエネルギー(など)相手(あいて)(あた)るものだと()れているようで、世間(せけん)(なか)には、なんとなく体調(たいちょう)(わる)(とき)気分(きぶん)がすぐれない(とき)など、そういうものに(たよ)(かた)がいるようです。そのヒーリングでいうところの、エネルギーとは、おそらく、『生命力(せいめいりょく)』とか『()』の(こと)()ているのではないかと(おも)れますが、()ける影響(えいきょう)としてはどうなのでしょうか。

 

私達(わたしたち)生命(せいめい)は、時間(じかん)空間(くうかん)(とう)一切(いっさい)関係(かんけい)なく、(ひと)それぞれが()くも(わる)くも様々(さまざま)影響(えいきょう)()(はたら)()ています。他者(たしゃ)のエネルギーなるものを()るという(こと)は、それ『以外(いがい)』も(ふく)めて()()てしまう可能性(かのうせい)があり、相応(そうおう)影響(えいきょう)()(こと)意味(いみ)します。(さら)()(がわ)(こころ)(ひら)いていれば、尚更(なおさら)影響(えいきょう)()やすくなってしまいます。これらの(こと)から相応(そうおう)にリスクを()めている(こと)十分(じゅうぶん)理解(りかい)する必要(ひつよう)があるのだと(おも)います。

 そもそも私達(わたしたち)には(みな)生命力(せいめいりょく)(そな)っており、心身(しんしん)(とも)影響(えいきょう)(あた)ているのですから、ヒーリングなるものに(たよ)るのではなく、自身(じしん)生命力(せいめいりょく)蘇生(そせい)させればいいのです。((やまい)場合(ばあい)医療(いりょう)による適切(てきせつ)治療(ちりょう)()けるのは()うまでもありませんが。)

大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)(ただ)信仰(しんこう)し・修行(しゅぎょう)していく(こと)によって、生命力(せいめいりょく)()()がり、自身(じしん)生命(せいめい)奥底(おうてい)から(ほとけ)(いのち)湧現(ゆげん)してきます。(べつ)()(かた)をすれば、大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)は、一切(いっさい)生命(せいめい)にとって最高(さいこう)究極(きゅうきょく)浄化(じょうか)であり、(いや)なのです。

 

 *「仏法(ぶっぽう)医学(いがく)」については、こちらのページ(ない)動画(どうが)紹介(しょうかい)しています。

◆縁の大切さ◆

私達(わたしたち)は、(つね)様々(さまざま)な『(えん)』に触れ(ふ )(こころ)変化(へんか)させています。ポジティブな気持(きも)ちでいたはずが、(いや)(こと)()きてネガティブな気持(きも)ちになってしまったり、不良(ふりょう)だった()()友人(ゆうじん)()合っ( )ていくうちに()()になった…(など)(もと)((いん))(なん)であれ、『(えん)』はその()結果(けっか)()くも(わる)くも()えていき、因果(いんが)逆転(ぎゃくてん)してしまう(こと)(おお)いのです。

 

私達(わたしたち)は、末法(まっぽう)という(にご)りきった時代(じだい)()まれた『(すく)(がた)衆生(しゅじょう)』だと()れています。(やまい)(たと)えるならば、(なお)(がた)い『(こころ)(やまい)』であるとも()えるかも()れません。

そんな私達(わたしたち)の『(こころ)(やまい)』を(なお)すには、これ以上(いじょう)ない『最高(さいこう)(くすり)』、(やまい)(てき)した(くすり)必要(ひつよう)であり、『(くすり)であれば(なん)でも()い』という(こと)ではありません。この最高(さいこう)(くすり)というのが日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)なのです。

これが『(えん)』となり、(ただ)しく服用(ふくよう)(つづ)けていくことによって、『(こころ)(やまい)』を完治(かんち)した生命(せいめい)ともいえる『(ほとけ)境界(きょうがい)』へと(つな)がっていきます。この究極(きゅうきょく)の『(えん)』に触れ(ふ )(ただ)修行(しゅぎょう)する(こと)によって『成仏(じょうぶつ)』という最高(さいこう)の『()』が()れるのです。

◆結論◆

(なん)しても結局(けっきょく)、すべての問題(もんだい)は、()()めれば(みな)生命(せいめい)から(はっ)ています。その発生源(はっせいげん)である生命(せいめい)を、(ただ)仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)によって(みが)き、浄化(じょうか)し、境界(きょうがい)(たか)ていくことによって、確実(かくじつ)(ただ)結果(けっか)へとつながっていきます。

つまり、『(くさ)いニオイは(もと)から()たなきゃダメ』と(おな)道理(どうり)です。