仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう) 1/2

 「最高(さいこう)(ほう)(たも)っていること、イコール自分(じぶん)(ただ)ちに完成(かんせい)された(すぐ)れた人間(にんげん)である」という錯覚(さっかく)は、自分(じぶん)自身(じしん)(たい)する評価(ひょうか)(あやま)らせ、(さら)なる向上(こうじょう)目指(めざ)努力(どりょく)(にぶ)らせるばかりでなく、他人(たにん)(たい)しても、その人間関係(にんげんかんけい)において、種々(しゅじゅ)不信感(ふしんかん)やトラブルを()んでいくもととなるのである。

 

 錯覚(さっかく)から(しょう)じた(まん)(こころ)は、()(ひと)言葉(ことば)(みみ)()さない、()(ひと)への配慮(はいりょ)()ける、(おも)いやりや(やさ)しさが()りない、(おな)目線(めせん)()って物事(ものごと)(かんが)えられない、などの()()となって(あらわ)れる。これが(こう)組織(そしき)(なか)で、種々(しゅじゅ)のトラブルのもととなったり、(しん)入信者(にゅうしんしゃ)後輩(こうはい)不信感(ふしんかん)(あた)えたり、(さら)には大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)疑念(ぎねん)(いだ)かせたりすることにもなりかねない。このことは、(ちい)さなことのようにも(おも)えるが、日々(ひび)活動(かつどう)によって(しょう)ずる感情(かんじょう)のぶつかり()いだけに、広布(こうふ)への(さまた)げとなっていることに気付(きづ)かなければならない。

 

 (みずか)信心(しんじん)していく(うえ)においても、()きていく(うえ)においても、また組織(そしき)として広布(こうふ)推進(すいしん)していく(うえ)においても、(とん)(じん)()(まん)()などの煩悩(ぼんのう)(なが)される(ひと)(こころ)ほどやっかいなものはなく、(おろそ)かに(あつか)うと(おも)いがけない悪果(あっか)()む。

 そのような意味(いみ)から、もう一度(いちど)本抄(ほんしょう)()かれる仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)という原理(げんり)(まな)び、お(たが)いの今後(こんご)信行(しんぎょう)広布(こうふ)(かて)としていきたいと(おも)う。

 

本抄(ほんしょう)での仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)()(あら)わす言葉(ことば)とは、

 「仏法(ぶっぽう)(たい)のごとし、世間(せけん)はかげのごとし。(たい)()がれば(かげ)()めなり」((しん)1469

御文(ごもん)である。

これは、個々(ここ)信心(しんじん)生活(せいかつ)という視点(してん)からの御指南(ごしなん)ではなく、(たい)となる(あやま)った邪法(じゃほう)邪義(じゃぎ)が、もし一国(いっこく)()げて(ひろ)信仰(しんこう)されるならば、その(かげ)である社会(しゃかい)国家(こっか)全体(ぜんたい)(にご)(みだ)れるという、(おお)きな視点(してん)より(しめ)された御文(ごもん)である。

この道理(どうり)より、大聖人(だいしょうにん)は、邪法(じゃほう)破折(はしゃく)正法(しょうぼう)()てて、国家(こっか)(あん)んずるという「立正(りっしょう)安国(あんこく)」への(みち)()(しめ)されているのである。

 

 仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)とは、仏性(ぶっしょう)()かされる真理(しんり)道理(どうり)が、生活(せいかつ)(ほう)である世法(せほう)全般(ぜんぱん)(つう)じ、()かされ、影響(えいきょう)(およ)ぼし、()らし、(みちび)いていくことを()いたもので、仏法(ぶっぽう)世法(せほう)とは(まった)(べつ)のものではなく、仏法(ぶっぽう)真理(しんり)世法(せほう)のありようとは(たが)いに相通(あいつう)ずるものがあることを()いたものである。

 

 この仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)道理(どうり)は、大聖人(だいしょうにん)の『災難(さいなん)対治抄(たいじしょう)』((しん)197)を(はい)すると、金光(こんこう)明経(みょうきょう)普賢(ふげん)菩薩(ぼさつ)行法経(ぎょうほうきょう)涅槃経(ねはんぎょう)、そして法華経(ほけきょう)(とう)()かれていることが()かされている。

その(うち)()(こん)(とう)三説(さんせつ)超過(ちょうか)した真実(しんじつ)究竟(くきょう)経典(きょうてん)法華経(ほけきょう)の『法師(ほっし)功徳品(くどくほん)』には、

(もろもろ)所説(しょせつ)(ほう)()()(しゅ)(したが)って、皆実相(みなじっそう)相違(あいい)(はい)せじ。()俗間(ぞっけん)経書(けいしょ)治世(ちせい)語言(ごごん)資生(ししょう)(ごう)(とう)()かんも、(みな)正法(しょうぼう)(じゅん)ぜん」(開結(かいけつ)494)とある。

 

 この意味(いみ)は、「それぞれの分野(ぶんや)(かん)する意義(いぎ)目的(もくてき)理由(りゆう)様々(さまざま)言葉(ことば)をもって()くが、それらは(すべ)仏法(ぶっぽう)()諸法(しょほう)実相(じっそう)という真理(しんり)(はん)することはない。つまり真理(しんり)(かな)っているということである。

具体的(ぐたいてき)には『俗間(ぞっけん)経書(けいしょ)(すなわ)世間(せけん)倫理(りんり)道徳(どうとく)哲学(てつがく)思想(しそう)なども、また『治世(ちせい)語言(ごごん)(すなわ)()(おさ)めるための政治(せいじ)法律(ほうりつ)経済(けいざい)などのあらゆる言葉(ことば)も、『資生(ししょう)(ごう)(すなわ)商売(しょうばい)工業(こうぎょう)農業(のうぎょう)などのあらゆる産業(さんぎょう)など、人間(にんげん)生活(せいかつ)していくためのなりわい、仕事(しごと)も『(みな)正法(しょうぼう)(じゅん)ぜん』ということで、その根本(こんぽん)精神(せいしん)(すべ)(ほとけ)(ただ)しい(おし)えに一致(いっち)する」という()である。

 

根本(こんぽん)(ほとけ)(ただ)しい(おし)えであって、その(ほとけ)(おし)えに世法(せほう)のあらゆる道理(どうり)(じゅん)ずることを()いているのである。

したがって「涅槃経(ねはんぎょう)」の、

一切(いっさい)世間(せけん)外道(げどう)経書(けいしょ)(みな)仏説(ぶっせつ)なり外道(げどう)(せつ)(あら)ず」(災難(さいなん)対治抄(たいじしょう)(しん)197

 という()も、世間(せけん)(すべ)ての外道(げどう)(おし)えや学説(がくせつ)は、その(みなもと)辿(たど)っていけば、(すべ)仏法(ぶっぽう)一大(いちだい)真理(しんり)より()()だされたものであって外道(げどう)(せつ)ではないということで、(さき)ほどの法華経(ほけきょう)(おな)()()かしている。

 

 大聖人(だいしょうにん)が「外典(げてん)仏法(ぶっぽう)初門(しょもん)となせしこれなり」(開目抄(かいもくしょう)(しん)524)と(おお)せられる理由(りゆう)はここにある。(ゆえ)にあらゆる世間(せけん)学説(がくせつ)産業(さんぎょう)政治(せいじ)経済(けいざい)などの生活法(せいかつほう)道理(どうり)は、(すべ)妙法(みょうほう)蓮華経(れんげきょう)根本(こんぽん)一法(いっぽう)一大(いちだい)真理(しんり)(かな)い、(つう)じていることをまず()るべきであり、また世法(せほう)妙法(みょうほう)一致(いっち)する道理(どうり)(しめ)されているのであるから、(けっ)して(ないがし)ろにしてはならないのである。

 

 そのことは、たとえば世間(せけん)()きる(ひと)にとって、仕事(しごと)をすることは生命(いのち)(なが)らえ、生活(せいかつ)していくための(すべ)ての基盤(きばん)となるが仕事(しごと)(たい)する(かんが)(かた)()()みについても、

()みやずかいを法華経(ほけきょう)とをぼしめせ」(檀越某(だんのつぼう)御返事(ごへんじ)(しん)1220

 

(おお)せのように、(ぎゃく)信心(しんじん)する(もの)にとっては、世法(せほう)仕事(しごと)一生懸命(いっしょうけんめい)(おこな)っていくことが、そのまま法華経(ほけきょう)(おし)えを実践(じっせん)していくことにもなるのである。