「最高の法を持っていること、イコール自分が直ちに完成された勝れた人間である」という錯覚は、自分自身に対する評価を誤らせ、更なる向上を目指す努力を鈍らせるばかりでなく、他人に対しても、その人間関係において、種々の不信感やトラブルを生んでいくもととなるのである。
錯覚から生じた慢の心は、他の人の言葉に耳を貸さない、他の人への配慮に欠ける、思いやりや優しさが足りない、同じ目線に立って物事が考えられない、などの振る舞いとなって現れる。これが講組織の中で、種々のトラブルのもととなったり、新入信者や後輩に不信感を与えたり、更には大聖人の仏法に疑念を抱かせたりすることにもなりかねない。このことは、小さなことのようにも思えるが、日々の活動によって生ずる感情のぶつかり合いだけに、広布への妨げとなっていることに気付かなければならない。
自ら信心していく上においても、生きていく上においても、また組織として広布を推進していく上においても、貪・瞋・癡・慢・疑などの煩悩に流される人の心ほどやっかいなものはなく、疎かに扱うと思いがけない悪果を生む。
そのような意味から、もう一度本抄に説かれる仏法即世法という原理を学び、お互いの今後の信行と広布の糧としていきたいと思う。
本抄での仏法即世法の義を表わす言葉とは、
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(新1469)
の御文である。
これは、個々の信心と生活という視点からの御指南ではなく、体となる誤った邪法・邪義が、もし一国を挙げて広く信仰されるならば、その影である社会や国家全体が濁り乱れるという、大きな視点より示された御文である。
この道理より、大聖人は、邪法を破折し正法を立てて、国家を安んずるという「立正安国」への道を説き示されているのである。
仏法即世法とは、仏性に明かされる真理や道理が、生活法である世法全般に通じ、活かされ、影響を及ぼし、照らし、導いていくことを説いたもので、仏法と世法とは全く別のものではなく、仏法の真理と世法のありようとは互いに相通ずるものがあることを説いたものである。
この仏法即世法の道理は、大聖人の『災難対治抄』(新197)を拝すると、金光明経普賢菩薩行法経や涅槃経、そして法華経等に説かれていることが明かされている。
その内、已今当の三説を超過した真実究竟の経典、法華経の『法師功徳品』には、
「諸の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(開結494)とある。
この意味は、「それぞれの分野に関する意義や目的、理由を様々な言葉をもって説くが、それらは全て仏法で説く諸法実相という真理に反することはない。つまり真理に適っているということである。
具体的には『俗間の経書』即ち世間の倫理や道徳、哲学や思想なども、また『治世の語言』即ち世を治めるための政治や法律、経済などのあらゆる言葉も、『資生の業』即ち商売や工業、農業などのあらゆる産業など、人間が生活していくためのなりわい、仕事も『皆正法に順ぜん』ということで、その根本精神は全て仏の正しい教えに一致する」という意である。
根本は仏の正しい教えであって、その仏の教えに世法のあらゆる道理が順ずることを説いているのである。
したがって「涅槃経」の、
「一切世間の外道の経書は皆仏説なり外道の説に非ず」(災難対治抄・新197)
という意も、世間の全ての外道の教えや学説は、その源を辿っていけば、全て仏法の一大真理より説き出だされたものであって外道の説ではないということで、先ほどの法華経と同じ意を明かしている。
大聖人が「外典を仏法の初門となせしこれなり」(開目抄・新524)と仰せられる理由はここにある。故にあらゆる世間の学説・産業・政治・経済などの生活法の道理は、全て妙法蓮華経の根本の一法、一大真理に適い、通じていることをまず知るべきであり、また世法も妙法に一致する道理が示されているのであるから、決して蔑ろにしてはならないのである。
そのことは、たとえば世間に生きる人にとって、仕事をすることは生命を長らえ、生活していくための全ての基盤となるが仕事に対する考え方、取り組みについても、
「御みやずかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・新1220)
と仰せのように、逆に信心する者にとっては、世法の仕事を一生懸命行っていくことが、そのまま法華経の教えを実践していくことにもなるのである。