天上編⑪ あとがき1

(さら)引続(ひきつづ)き、(わた)しの体験(たいけん)(とお)て【地獄編(じごくへん)】と【餓鬼編(がきへん)】を()予定(よてい)でございましたけれど、あまりにも残酷(ざんこく)悲惨(ひさん)(きわ)まるあの世界(せかい)生々(なまなま)しさは、言葉(ことば)やペンに(あらわ)わす(こと)到底(とうてい)出来(でき)えるものではなく、中止(ちゅうし)させて(いただ)ました。

もしあえて(あらわ)わそうとすれば、その世界(せかい)で、そのような(おも)をしている人々(ひとびと)(くる)みをそのまま、実際(じっさい)()()(げん)じてしまう結果(けっか)となってしまうのです。

それは、どう()(こと)かと()ますと、これが〔(ほう)原理(げんり)〕とも()べきものかも()ません。

 

御書(ごしょ)御義(おんぎ)口伝(くでん))に、

南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)(とな)奉る(たてまつ  )(とき)題目(だいもく)(ひかり)無間(むけん)至っ(いた  )て』という()金言(きんげん)がございますが、

法華経(ほけきょう)修行(しゅぎょう)する(もの)がひとつの(こと)(おも)、こらしたと(いた)ます。

すると、その一念(いちねん)三千(さんぜん)大千(だいせん)世界(せかい)自分(じぶん)(こころ)指定(してい)した場所(ばしょ)世界(せかい)へと時間(じかん)空間(くうかん)超越(ちょうえつ)して同時(どうじ)()ます。それが天上界(てんじょうかい)へでも、地獄界(じごくかい)へでも自由(じゆう)自在(じざい)なのです。

そして、そこに生命(せいめい)存在(そんざい)がある(かぎ)、その生命(せいめい)呼応(こおう)して相手(あいて)生命(せいめい)状態(じょうたい)()心身(しんしん)(かん)涌現(ゆげん)してしまうのです。(ひと)一念(いちねん)()ものは、すごい(ちから)()ているものなのです。

まして、この正法(しょうぼう)修行(しゅぎょう)して(たか)霊格(れいかく)(そな)られた方々(かたがた)ならば(だれ)でも、(かんが)られないような、偉大(いだい)(ちから)発揮(はっき)いたします。

(わた)しなどは、まだまだですけれど、それでもたった三、四(ぎょう)ぐらい()いただけで、その世界(せかい)(げん)てしまいました。それはとても人間(にんげん)には()られるものではありません。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)が、

「もし日蓮(にちれん)がそれを(あか)ば それを()人々(ひとびと)は、その()()()()でしまうであろう」(趣意(しゅい))とおっしゃられ、まさにその(とお)だと(おも)ます。

 

(わた)しが()(いただ)範囲(はんい)のものは、地獄(じごく)()ても、まだまだ(じょ)(くち)で、それでさえ(わた)しが(おも)ただけでその(とお)なのですから、それ以上(いじょう)地獄(じごく)()たら、我々(われわれ)には、とても想像(そうぞう)(ぜっ)します。(わた)しは(おも)大聖人(だいしょうにん)(さま)のお名前(なまえ)()でしまったくらいなのです。

それで()そんな世界(せかい)()()れたな、と()(こと)になると(おも)ますが、それはまた(べつ)意識(いしき)なのです。

(わた)しは、あくまでも自分(じぶん)意志(いし)()(わけ)ではなく、修行(しゅぎょう)(ため)のひとつの手段(しゅだん)として()本尊(ほんぞん)(さま)(ほう)〕からの御導(おみちび)きによって()(あた)られたものですから、(わた)しの(そば)には(かなら)守護(しゅご)していて(くだ)御方(おかた)守護神(しゅごじん)〕が()ていて(くだ)います。

ですから、たとえその世界(せかい)(おそ)しさに()りがないにしても、(べつ)感覚(かんかく)、または(べつ)(いのち)段階(だんかい)霊格(れいかく)〕から()(いただ)ている(ため)、その世界(せかい)()ても(いのち)次元(じげん)(ちが)ますので、自分(じぶん)(いのち)(なか)直接(ちょくせつ)()()てしまうような(こと)はありません。

 

人間界(にんげんかい)にいる場合(ばあい)(いのち)段階(だんかい)は、いくら(ちが)ていても〔十界論(じっかいろん)〕の原理(げんり)から()ましても、自分(じぶん)一念(いちねん)をその次元(じげん)()せなければ、()()たその(とき)有様(ありさま)様子(ようす)などは到底(とうてい)(おも)()(こと)出来(でき)ません。

(おも)()す」と()(こと)自分(じぶん)(こころ)(なか)に、その世界(せかい)をそっくりそのまま()てくると()(こと)にもなり、再現(さいげん)すると()(こと)になります。

そして自分(じぶん)がその世界(せかい)住人(じゅうにん)(おな)一員(いちいん)となって、その(くる)みを(かん)てしまうと()(かたち)になってしまいます。(みじか)()自分(じぶん)(こころ)(なか)地獄(じごく)(げん)てしまうと()(こと)なのです。

 これは時間(じかん)空間(くうかん)一切(いっさい)関係(かんけい)なく、何百年(なんびゃくねん)何千年(なんぜんねん)(まえ)人々(ひとびと)とも交信(こうしん)する(こと)まで出来(でき)、また過去(かこ)自分(じぶん)生命(せいめい)までも涌現(ゆげん)する(こと)さえ出来(でき)るのです。