更に引続き、私くしの体験を通して【地獄編】と【餓鬼編】を書く予定でございましたけれど、あまりにも残酷・悲惨窮まるあの世界の生々しさは、言葉やペンに現わす事は到底出来えるものではなく、中止させて頂きました。
もしあえて現わそうとすれば、その世界で、そのような思いをしている人々の苦しみをそのまま、実際に我が身に現じてしまう結果となってしまうのです。
それは、どう言う事かと言いますと、これが〔法の原理〕とも言うべきものかも知れません。
御書(御義口伝)に、
『南無妙法蓮華経と唱え奉る時、題目の光無間に至っ て』という御金言がございますが、
法華経を修行する者がひとつの事を思い、こらしたと致します。
すると、その一念は三千大千世界、自分の心が指定した場所・世界へと時間と空間を超越して同時に飛びます。それが天上界へでも、地獄界へでも自由自在なのです。
そして、そこに生命の存在がある限り、その生命と呼応して相手の生命の状態を我が心身に感じて涌現してしまうのです。人の一念と言うものは、すごい力を持っているものなのです。
まして、この正法を修行して高い霊格を備えられた方々ならば誰でも、考えられないような、偉大な力を発揮いたします。
私くしなどは、まだまだですけれど、それでもたった三、四行ぐらい書いただけで、その世界を現じてしまいました。それはとても人間には耐えられるものではありません。
大聖人様が、
「もし日蓮がそれを明さば それを聞いた人々は、その場で血を吐いて死んでしまうであろう」(趣意)とおっしゃられ、まさにその通りだと思います。
私くしが見せて頂ける範囲のものは、地獄と言っても、まだまだ序の口で、それでさえ私くしが思っただけでその通りなのですから、それ以上の地獄と言ったら、我々には、とても想像を絶します。私くしは思わず大聖人様のお名前を呼んでしまったくらいなのです。
それで良くそんな世界を見て来れたな、と言う事になると思いますが、それはまた別意識なのです。
私くしは、あくまでも自分の意志で行った訳ではなく、修行の為のひとつの手段として御本尊様〔法〕からの御導きによって見せ・与えられたものですから、私くしの側には必ず守護していて下さる御方〔守護神〕が着いていて下さいます。
ですから、たとえその世界の恐ろしさに変わりがないにしても、別の感覚、または別の命の段階〔霊格〕から見せて頂いている為、その世界に居ても命の次元が違いますので、自分の命の中に直接取り入れてしまうような事はありません。
人間界にいる場合、命の段階は、いくら違っていても〔十界論〕の原理から言いましても、自分の一念をその次元に合わせなければ、過ぎ去ったその時の有様、様子などは到底、思い起こす事は出来ません。
「思い起こす」と言う事は自分の心の中に、その世界をそっくりそのまま持ってくると言う事にもなり、再現すると言う事になります。
そして自分がその世界の住人と同じ一員となって、その苦しみを感じてしまうと言う形になってしまいます。短く言えば自分の心の中に地獄を現じてしまうと言う事なのです。
これは時間と空間は一切関係なく、何百年・何千年前の人々とも交信する事まで出来、また過去の自分の生命までも涌現する事さえ出来るのです。