ここまで来ますと、どれが『あやめか・かきつばた』なんて言う言葉は、とてもではないですが、ここでは通用しません。
けれど尚、良く観察して見ますと、この席に座った天女達には、何か「命から感じる別の美しさ」と言うものを秘めているようにも思えたのです。もちろん衣装も違いますから、更に霊格も高い方々だと思われます。
「何と言う心地の良い席なんだ。まるでおとぎの国の王子様になったような気分だ。それにしても、また何と良い香りなんだ。静かに漂って来る香りに心が蕩けそうになりそうだ。」
四人の天女は、私くしの方へおもむろに静かに視線を向けると、静かに微笑みながら、衣の袖を軽く持って白い美しい手で『どうぞ』と言うようにテーブルの方をさしました。
ところが、まぶしくて顔をまともに見ることができません。
すると、どうでしょう。今まで気が付かなかったテーブルの上一杯に、見た事がないような飲物や御馳走がズラリと並んでいるではありませんか。
それを見ているだけで、充分に満足が得られてしまいました。不思議なものです。これが人間界ではそうは参りません。
実際に飲んだり、食べたりしなければ、満足は得られませんが、霊界ではすべて心だけで、人間界で実際に得る所の何十倍もの喜び・満足感が得られるのです。
そこが物質世界と心の世界、つまり「色と空の次元」の違いなのですね。
霊界はあくまでも想念の世界ですから、自分が何でもそのように思えば、その一念によって『自分が住んでいる世界』だろうが何だろうが、どのようにでも自由に変える事が出来るのです。
これは自分の生命段階〔霊格〕によるものですが、霊格が高くなればなるほど、その心に秘める一念の力は、偉大なものに変わって行きます。
これを大聖人様は、『心の財(生命の進化に共なって備わる徳)』とおっしゃられております。
そうです。人間誰でも物質世界(色界)を終わって、心の世界と入って行けば「心の財」がすべてなのです。
今私くしが来ているこの世界も、ここに住んでいる天人達の「心の財」の現れなのです。
大聖人様は御書に
『蔵の財より身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり』と仰せになっております。
いくら、この世の中で自分が財産や名誉・地位・権力を得た所で所詮は人間界に居る内だけで、そんなものは霊界では何の役にも立たないと言う事なのです。我々が、いくら長生きしたといっても百歳までは、めったに生きられません。
『されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし』との御書の中の御金言も、この事なのです。
今世で一生懸命生きて行く事も大事な事ですけれど、後生の事も如何に大事であるかと言う事を教えられているのでしょう。
人間界生きるのは僅か7、80年ぐらいですが、霊界、つまり〔法界〕では何百年・何千年、いや、何万年も生きて行かなければならない人達も居るのです。その時に自分達がどのような思いで、その長い後生を生きて行くかと言う事が問題なのです。それが今生でのすべての修行如何にかかっていると言う事も、良く良く考えていくべき事ではないのでしょうか。
成仏と言う境界が得られるなら又、話は別です。「霊山」と言う最高の世界で永遠の生命が頂けるのですから…。
それより、もっと驚きましたのは、いつ現れたのでしょうか、私くしの目の前に天人達の男女が美しい人模様、いや天人模様か…、を描いて大広間一杯に現れたのです。
その着ている衣装・姿と言い、美しいの何のって、何と言って良いのやら…。自分が思っている十分の一も言葉に上手く現す事が出来ません。
まず天女は、薄くピンクがかった透き通るような白い羽衣の衣装に、耳と首の所にキラキラと輝く飾りを付けており、ダイヤでも散らしてあるかのように揺れる度に衣装が光を放すのです。私くしは、うっとりと見とれておりました。
何時となく静かに、綺麗な音楽が広間一杯に流れ始めて、すると、その天人達は音楽に誘われるように静かに舞い始めたのです。