ある体験から⑥

(わた)しはよく、勤行(ごんぎょう)(とき)などに〔(ほう)〕の(かた)からのメッセージを(いただ)(こと)()ますが、その(なか)で「世界(せかい)もいよいよ(せま)なりましたね」と()れた(こと)があります。それは私達(わたしたち)法華経(ほけきょう)(とな)(もの)境界(きょうがい)()(くだ)っているのでしょう。(中略(ちゅうりゃく)

すべて自分(じぶん)胸中(きょうちゅう)(おさ)っていると()(こと)ですから…。(わた)しが法界(ほうかい)にいる同志(どうし)をお()すれば、同時(どうじ)にここに()()れます。(中略(ちゅうりゃく)

 

釈迦(しゃか)(さま)虚空会(こくうえ)儀式(ぎしき)(とき)全宇宙(ぜんうちゅう)から、あらゆる仏菩薩(ぶつぼさつ)(かみ)が、お釈迦(しゃか)(さま)(もと)一時(いっとき)(あつ)ったと()れておりますが、宇宙(うちゅう)にはまだまだ我々(われわれ)()らない生命(せいめい)世界(せかい)が、たくさん存在(そんざい)している(こと)でしょうね。

これもすべて大聖人(だいしょうにん)(さま)(ほう)によるものです。そんな素晴(すば)らしい(ほう)修行(しゅぎょう)させて(いただ)る…。私達(わたしたち)(なん)()幸福(こうふく)(もの)なのでしょうか。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)は、千日尼(せんにちあま)御前(ごぜん)御返事(ごへんじ)

我等(われら)穢土(えど)(そうら)ども(こころ)霊山(りょうぜん)()べし。』とおっしゃられております。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)より(いただ)たメッセージの(なか)

()せんだらが(いえ)()れしは (われ)(ほう)(さだ)るゆえん() あまねく()善神(ぜんしん)も ()(ほう)(さだ)るによる」

昭和(しょうわ)62(ねん)5(がつ)28(にち)〕との()金言(きんげん)まで(いただ)ております。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)漁師(りょうし)(せんだら)の(いえ)()()まれになったのは、大聖人(だいしょうにん)(さま)(そく)(ほう)(みずか)、お()になった(こと)であります。

また太陽(たいよう)(つき)(ほし)照ら( )しているのも、全宇宙(ぜんうちゅう)法則(ほうそく)()のも(みな)大聖人(だいしょうにん)(さま)(ほう)(さだ)めたものによるものであるとおっしゃられているのです。

すると我々(われわれ)地球(ちきゅう)生物(せいぶつ)は、すべて御仏(みほとけ)大聖人(だいしょうにん)(さま)()によって()されていると()(こと)(わす)てはなりません。

 

ところがどうでしょう。(いま)()人々(ひとびと)は、そう()(こと)(わす)自分(じぶん)()ているのは()(まえ)のようなつもりで、(ひと)迷惑(めいわく)(かえり)勝手(かって)(こと)ばかり()たり、したり、そして自分(じぶん)(おも)ようにならなければ、ずくに(ひと)責任(せきにん)転換(てんかん)したり、(また)(はなは)しいのは、()(こと)(とうと)(わす)自分(じぶん)今生(こんじょう)(せい)()(こと)(わる)ったような(こと)まで、(おや)()って口走(くちばし)若者達(わかものたち)もおります。

()たくても()られず、(ひごう)最後(さいご)()げて()(ひとびと)(なん)(おお)()(なか)(じつ)嘆か(なげ  )わしい(こと)でしょうか。五濁(ごじょく)悪世(あくせ)大聖人(だいしょうにん)(さま)がおっしゃられておりますが、まさにその(とお)です。

(わた)しが、大聖人(だいしょうにん)(さま)より(いただ)たメッセージの(なか)にも、(きび)()言葉(ことば)がございます。

 

(わる)()(なか)になりましたな。人々(ひとびと)(みな)(おのれ)心性(しんしょう)()(うしな)い、(まこと)幸福(こうふく)()ず、煩悩(ぼんのう)(はし)快楽(かいらく)()(まか)堕落(だらく)一途(いっと)辿(たど)ると()たり。

たまたま正法(しょうぼう)(とな)集団(しゅうだん)()しかと(おも)ども、それは()かけのみにて(おのれ)栄誉(えいよ)栄達(えいたつ)ばかりを(はか)(けん)(よく)(きん)(よく)(むさぼ)営利(えいり)(はし)(とど)(ところ)()ず。あまつさえ(おお)民衆(みんしゅう)をたぼらかしたる()諸行(しょぎょう)(ゆる)(がた)ものなり。

(また)(そう)もしかり。(われ)こそ正法(しょうぼう)護持(ごじ)(もの)なりと(もう)せししかども真意(しんい)()ず。民衆(みんしゅう)(こと)など(かえり)ず。いたずらに(ころも)(そで)(かく)営利(えいり)(むさぼ)のみ。この(ひと)命終(みょうじゅう)して飽食(ほうしょく)餓鬼(がき)()ん。はかなし、はかなし。

 

政治(せいじ)教育(きょういく)(みだ)医師(いし)(こころ)低下(ていか)し、利益(りえき)のみに終始(しゅうじ)し、人々(ひとびと)(まこと)(ほう)()ず、聴聞(ちょうもん)せししかども()()ず、(いま)()()げて五濁(ごじょく)悪世(あくせ)()(ただ)(なか)突入(とつにゅう)せんとする(とき)(てん)(おお)いに(いか)悪鬼(あっき)乱入(らんにゅう)す。

各国(かっこく)各所(かくしょ)(さい)()(なん)()たりて、民衆(みんしゅう)(なげ)頂点(ちょうてん)(たっ)(こころ)阿鼻(あび)(そう)(げん)ぜん(とき)人々(ひとびと)その罪障(ざいしょう)軽重(けいじゅう)にかかわらず餌食(えじき)とならん。おそろし、おそろし。

(いま)(まこと)(ほう)唱行(しょうぎょう)する(もの)極少数(ごくしょうすう)なれどと()(そうろう)。しかども、(いま)こそ(こえ)(たか)らかに (まこと)(ほう)唱行(しょうぎょう)せん。五字(ごじ)光明(こうみょう)益々(ますます)()(わた) この(ひと)命終(みょうじゅう)して霊山(りょうぜん)(せい)()くる(こと)(うたが)なし。あらうれしや、うれしや。南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)

 

ここで、おっしゃられている「集団(しゅうだん)」とは、どこの団体(だんたい)指し( )ていられるのか。

また真実(しんじつ)(ほう)(とな)る「小数(しょうすう)(もの)」とは、どなた(たち)()れているのか。

それは(わた)(たち)推察(すいさつ)する以外(いがい)(わか)ませんが、()(なか)(たし)にそのような形相(ぎょうそう)(げん)()いる(こと)には間違(まちが)はありません。

大聖人(だいしょうにん)(さま)正法(しょうぼう)弘教(ぐきょう)して()べき、団体(だんたい)(とう)(なか)にも色々(いろいろ)問題(もんだい)()こって()()ます。

(わた)(たち)は、そう()()(まえ)(あらわ)現象(げんしょう)だけに(とら)れていたのでは、真実(しんじつ)(ほう)()ものを見失(みうしな)ってしまうのでは()ませんか。

()(なか)がどのようになろうと()わろうと、大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)厳然(げんぜん)として、大宇宙(だいうちゅう)我々(われわれ)一人(ひとり)一人(ひとり)(こころ)(なか)存在(そんざい)しているのです。それを見出(みいだ)すか()ないかは、(わた)(たち)信仰心(しんこうしん)によるものではないのでしょうか。(中略(ちゅうりゃく)