自分では一生懸命にやっているつもりでも、長い間の事、自然と何処かが、ずれて来てしまうのでしょうね。ですから「真の法を唱行する者は何時も自分を良く見つめながら、反省を第一として行くべきだ」と正法に目覚め、20年の間、修行をさせて頂いて来た中で何回も御注意を頂いております。
また、自分も朝夕の勤行の姿勢の、何処が良くないのかを良く考えながら、行なうようにしましたが、私くしの状態は依然としてあまり変わりなく数日が過ぎました。
そんなある晩、お勤めの時に共に修行する三輪さん(仮名)からの電話で魔の撹乱戦法だと云う事が分かったのです。私くしは本当に自分の耳を疑いました。
まさか今になって魔が私くしに挑戦して来るとは思いもよらぬ事でした。それは私くしに、慢心する心があったのかも知れません。
そのように思えたのは20年の間、あらゆる世界の魔王とも対決したからです。日本の魔界の連中とも対決し、中には多くの魔界の皆さんを法華経に帰依させて来た事もありました。それはもちろん、私くし一人の力ではなく、私くしの修行として法華経の方からさせて頂いた事で、〔法〕の方からのお力添えがあったればこそ出来た事なのです。
以前、「第六天さんの第一の分身」と云われる方などと対決した時は一瞬、これで命を取られるのではないか、と思ったぐらいで、仏も畏れぬ凄い魔王でした。しかし私くしは「法華経の為に捨てる命なら惜しくない」と腹を決め、十方の諸仏の方々にお力添えをお願い申し上げ、対決に望んだのです。
そして、それを見事に成し遂げる事が出来たのですが、その時、十方の諸仏の方々から
「我々が力を貸したとは云え良くぞ出来ました事を心から拍手申し上げます」と云って下さいました。
しかしその後すぐに、別の御方から、法華経の高い御方と拝しましたが
「第六天の魔王と云えども、法華経の中に説かれている善にもなれば、悪にもなる。全部が悪とは限らない。これからはあまり、こう云う事は、なさらないで下さい」
と云われましたが、私くしも一人の人を救う為にやってしまった事…。
それは先ず凄いものでした。これは後で分かった事なのですが、私くしの信心を御試しになられたのではないのか、とも思われました。
それと言いますのも、私くしも第六天さんとは知らず、第六天さんも私くしとは知らなかったそうです。だからと云って私くしが誰だと云う事ではなく、ただ法華経を修行する一人の人間としてです。
お互いが相手を知らずに対決するなんて誠に不思議な事です。
後で「お互いに力を合わせ法華経の為に民衆を救って行く事」を約束して別れましたが、それ以来、魔との対決はなかったので、今になって魔が挑戦してくるとは思いもよらぬ事でした。
私くしの身体の調子の悪い事を良い事に、それに便乗して来たのだと思います。
魔にもピンからキリまでおりますが、「悪の為の悪」と云うものもあり、悪を働いて喜びを感じている…。つまり「魔界の住人」と云うものや、「第六天のように悪にもなれば善にもなる」と云うものもあります。
いずれにしても「引っ張り出してギュッと云う目に合わせてくれるわ!」
これが私くしの悪い癖ですが、いざ引っ張り出してみると、いずれもチンピラで、なにか可哀想になってしまい、いつも法華経に帰依させてしまう。つまり救う結果になってしまい本当に不思議な事です。
以前、〔法〕の方より
「魔と云えども人間です。痛めつけて良いという事にはなりません」と云われた事があり、本当にその通りだと思いました。
自分の心に隙があるから魔につけ込まれるのですが、自分が悪いのに魔のせいにしてしまう…。魔と云うものがいるから、精進・出来るのかも知れません。魔も精進すればするほど巧妙になって参りますが、時と場合によっては、魔も良い善知識になるのかも知れません。それ以来、私くしの身体の調子もすっかり良くなって参りました。
その時に〔法〕の方より御言葉を頂きました。
『正法めがけて魔の攻撃 たぼらかされるな魔の諸行 臨と構えて友として 修行の励みの糧とする』(平成9年4月4日[金]10時)
『もっと目を開かれよ。 もっと高い境界に行かれよ。その様な所で足踏みしている時ではないわ。皆の者がまだまだ待っておるで。達者で頑張ってもらわねばならぬ。』(平成9年4月8日 [火] 午後3時)
それから5ヶ月、何事もなく過ぎた9月15~16日頃から、今度は両手の真中と両足の「土踏まず」のかなり広い範囲に、火傷をしたような、まるで皮膚病のようなものが出来始まりました。
そしてそれが「かさぶた」のようになり、かなり厚い層になってしまい、皮がむける訳でもなく、水が出る訳でもなく、痛くも痒くもなく、うつる訳でも、薬をつけても治る訳でもなく、実に不思議なものが出来てしまいました。なかなか治らず、だからと云って仕事に差し支える訳でもないのです。一体これはどう云う事なのか…。自分でもどうにも判断つけ難く、「ともかく法華経に身をまかせている自分だから、その内わかる時が来るだろう。」そう思いながら毎日を過ごしておりました。