法をみつめて②

自分(じぶん)では一生(いっしょう)懸命(けんめい)にやっているつもりでも、(なが)(あいだ)(こと)自然(しぜん)何処(どこ)かが、ずれて()しまうのでしょうね。ですから「(まこと)(ほう)唱行(しょうぎょう)する(もの)何時(いつ)自分(じぶん)()()めながら、反省(はんせい)第一(だいいち)として()べきだ」と正法(しょうぼう)目覚(めざ)め、20(ねん)(あいだ)修行(しゅぎょう)をさせて(いただ)()(なか)何回(なんかい)御注意(ごちゅうい)(いただ)ております。

また、自分(じぶん)朝夕(あさゆう)勤行(ごんぎょう)姿勢(しせい)の、何処(どこ)()ないのかを()(かんが)ながら、(おこ)うようにしましたが、(わた)しの状態(じょうたい)依然(いぜん)としてあまり()りなく数日(すうじつ)()ました。

 

そんなある(ばん)、お(つと)(とき)(とも)修行(しゅぎょう)する三輪(みわ)さん(仮名(かめい))からの電話(でんわ)()撹乱(かくらん)戦法(せんぽう)だと()(こと)()ったのです。(わた)しは本当(ほんとう)自分(じぶん)(みみ)(うたが)ました。

まさか(いま)になって()(わた)しに挑戦(ちょうせん)して()とは(おも)もよらぬ(こと)でした。それは(わた)しに、慢心(まんしん)する(こころ)があったのかも()ません。

そのように(おも)たのは20(ねん)(あいだ)、あらゆる世界(せかい)魔王(まおう)とも対決(たいけつ)たからです。日本(にほん)魔界(まかい)連中(れんちゅう)とも対決(たいけつ)(なか)には(おお)魔界(まかい)(みな)さんを法華経(ほけきょう)帰依(きえ)させて()(こと)もありました。それはもちろん、(わた)一人(ひとり)(ちから)ではなく、(わた)しの修行(しゅぎょう)として法華経(ほけきょう)(かた)からさせて(いただ)(こと)で、〔(ほう)〕の(かた)からのお力添(ちからぞ)えがあったればこそ出来(でき)(こと)なのです。

 

以前(いぜん)、「第六天(だいろくてん)さんの第一(だいいち)分身(ぶんしん)」と()れる(かた)などと対決(たいけつ)(とき)一瞬(いっしゅん)、これで(いのち)()れるのではないか、と(おも)たぐらいで、(ほとけ)(おそ)(すご)魔王(まおう)でした。しかし(わた)しは「法華経(ほけきょう)(ため)()(いのち)なら()くない」と(はら)()十方(じっぽう)諸仏(しょぶつ)方々(かたがた)にお力添(ちからぞ)えをお(ねが)(もう)()対決(たいけつ)(のぞ)だのです。

そして、それを見事(みごと)()()げる(こと)出来(でき)たのですが、その(とき)十方(じっぽう)諸仏(しょぶつ)方々(かたがた)から

我々(われわれ)(ちから)()したとは()()出来(でき)ました(こと)(こころ)から拍手(はくしゅ)(もう)()ます」と()(くだ)いました。

 

しかしその(あと)すぐに、(べつ)御方(おかた)から、法華経(ほけきょう)(たか)御方(おかた)(はい)ましたが

第六天(だいろくてん)魔王(まおう)()ども、法華経(ほけきょう)(なか)()れている(ぜん)にもなれば、(あく)にもなる。全部(ぜんぶ)(あく)とは(かぎ)ない。これからはあまり、こう()(こと)は、なさらないで(くだ)い」

()れましたが、(わた)しも一人(ひとり)(ひと)(すく)(ため)にやってしまった(こと)…。

 

それは()(すご)ものでした。これは(あと)()った(こと)なのですが、(わた)しの信心(しんじん)()(ため)しになられたのではないのか、とも(おも)れました。

それと()ますのも、(わた)しも第六天(だいろくてん)さんとは()ず、第六天(だいろくてん)さんも(わた)しとは()なかったそうです。だからと()(わた)しが(だれ)だと()(こと)ではなく、ただ法華経(ほけきょう)修行(しゅぎょう)する一人(ひとり)人間(にんげん)としてです。

(たが)相手(あいて)()ずに対決(たいけつ)するなんて(まこと)不思議(ふしぎ)(こと)です。

(あと)「お(たが)(ちから)()法華経(ほけきょう)(ため)民衆(みんしゅう)(すく)()(こと)」を約束(やくそく)して(わか)ましたが、それ以来(いらい)()との対決(たいけつ)はなかったので、(いま)になって()挑戦(ちょうせん)してくるとは(おも)もよらぬ(こと)でした。

(わた)しの身体(からだ)調子(ちょうし)(わる)(こと)()(こと)に、それに便乗(びんじょう)して()のだと(おも)ます。

 

()にもピンからキリまでおりますが、「(あく)(ため)(あく)」と()ものもあり、(あく)(はたら)(よろこ)(かん)ている…。つまり「魔界(まかい)住人(じゅうにん)」と()ものや、「第六天(だいろくてん)のように(あく)にもなれば(ぜん)にもなる」と()ものもあります。

いずれにしても「()()()てギュッと()()()せてくれるわ!」

これが(わた)しの(わる)(くせ)ですが、いざ()()()てみると、いずれもチンピラで、なにか可哀想(かわいそう)になってしまい、いつも法華経(ほけきょう)帰依(きえ)させてしまう。つまり(すく)結果(けっか)になってしまい本当(ほんとう)不思議(ふしぎ)(こと)です。

 

以前(いぜん)、〔(ほう)〕の(かた)より

()()ども人間(にんげん)です。(いた)つけて()という(こと)にはなりません」と()れた(こと)があり、本当(ほんとう)にその(とお)だと(おも)ました。

自分(じぶん)(こころ)(すき)があるから()につけ()れるのですが、自分(じぶん)(わる)のに()のせいにしてしまう…。()()ものがいるから、精進(しょうじん)出来(でき)るのかも()ません。()精進(しょうじん)すればするほど巧妙(こうみょう)になって(まい)ますが、(とき)場合(ばあい)によっては、()()(ぜん)知識(ちしき)になるのかも()ません。それ以来(いらい)(わた)しの身体(からだ)調子(ちょうし)もすっかり()なって(まい)ました。

 

その(とき)に〔(ほう)〕の(かた)より()言葉(ことば)(いただ)ました。

正法(しょうぼう)めがけて()攻撃(こうげき) たぼらかされるな()諸行(しょぎょう) (りん)(かま)えて(とも)として 修行(しゅぎょう)(はげ)(かて)とする』(平成(へいせい)9(ねん)4(がつ)4(よっか)[(きん)]10()

 

『もっと()(ひら)れよ。 もっと(たか)境界(きょうがい)()れよ。その(よう)(ところ)(あし)()みしている(とき)ではないわ。(みな)(もの)がまだまだ()ておるで。達者(たっしゃ)頑張(がんば)ってもらわねばならぬ。』(平成(へいせい)9(ねん)4(がつ)8(ようか) [()] 午後(ごご)3())

 

それから5ヶ月(かげつ)何事(なにごと)もなく()9(がつ)1516(にち)(ころ)から、今度(こんど)両手(りょうて)真中(まんなか)両足(りょうあし)の「(つち)()まず」のかなり(ひろ)範囲(はんい)に、火傷(やけど)をしたような、まるで皮膚(ひふ)(びょう)のようなものが出来(でき)(はじ)りました。

 

そしてそれが「かさぶた」のようになり、かなり(あつ)(そう)になってしまい、(かわ)がむける(わけ)でもなく、(みず)()(わけ)でもなく、(いた)(かゆ)もなく、うつる(わけ)でも、(くすり)をつけても(なお)(わけ)でもなく、(じつ)不思議(ふしぎ)なものが出来(でき)てしまいました。なかなか(なお)ず、だからと()仕事(しごと)()(つか)(わけ)でもないのです。一体(いったい)これはどう()(こと)なのか…。自分(じぶん)でもどうにも判断(はんだん)つけ(がた)、「ともかく法華経(ほけきょう)()をまかせている自分(じぶん)だから、その(うち)わかる(とき)()だろう。」そう(おも)ながら毎日(まいにち)()しておりました。