見渡す限りの大草原が、地平線の彼方まで続いているかとも思えました。だが自分の心を落ち着けて、良く見ている内に段々分かって来ました。
「そうだ、ここは霊界かも知れない」
すると、「自分は夢を見ている訳ではなく、幽体離脱で来ているのかも知れない。」
私くしが、そう思えたのは今までにも何回か訳も分からずに、こう言う体験をしているからです。それが後になって幽体離脱であった事を「法の方」から教えられました。
そう言えば自分が落ち着いて考えてみれば、自分の意識も人間界に居る時と全く同じようにハッキリしておりますし、決して夢のようにそんなフワッとしたものではありません。
人間界に居た自分がそのまま、ここに来ていると言うだけのもののように思えました。ただ世界が違うと言うだけの事に過ぎません。
「そうだ、それならそれでもいいんだ。」
何故か人間界の事などは、不思議と一向に気にならない。何か別の世界の事のようにも思えるのです。
今の自分としての現実は、ここに居ると言う事に変わりはないのです。ちっとも淋しくないし、それどころか、むしろ何かの期待に胸が弾んで来るような思いさえして来るのです。
「あー、空気が美味しい。」
何とも言いようのない新鮮で爽やかな、まるでスイスの高原にある別荘地にでも来ているような感じです。自分では人間界での感覚そのものです。
良く見ると大草原は3000メートル位の間隔で砂丘のように、なだらかな『うねり』を見せながら、遥か彼方まで続いているのです。
その更に遥か彼方には山上に雲をかむった連山が澄み切った青空の中にくっきりと浮かび美しく輝いており、燃えるような緑の草原には、色とりどりの花も咲き乱れ、そよ吹く風にかすかに揺れており、右の遠くに見える小高い丘の中腹から上の方にかけて立ち並んでいる建物は、住宅と言うか、何と言うか、ともかく素晴らしいもので、まるで金銀で出来ているかのように光り輝いているのです。
「すげーなー。こんな素晴らしい建物に誰が住んでいるんだんべーなー。」
いくらか心にゆとりが出来てきたのか、つい田舎弁が出てきそうになってしまいます。
命というのは不思議なものです。肉体がないのに癖がそのまま出て来てしまうのですから…。
そして、今まで気が付きませんでしたが、少し落ち着いて来るに従って何処からともなく、そよ風に乗ってと言いますか、上の方からと言いますか、素晴らしい音色の音楽が、静かに流れている事に気付いたのです。
それは人間界ではあまり聞いた事のない楽器のようでもあり、メロディーなのです。
聞いているだけで心が安らぎ、楽しくなってきます。
良く見ると私くしは、その砂丘のようになっている小高い所に腰を降ろして、その風景に見蕩れておりました。
私くし以外に誰もおらず、たった一人なのですが、不思議と少しも淋しくなく、それどころか、何か暖かい人々の心に包まれているような、又、力強いものに支えられているような気持ちさえするのです。
「これが仏法であり、諸天の加護であり、大聖人様の御慈悲と言うものかも知れない。この大宇宙は、すべて大聖人様の御心にあるのだ。これを司どるものが仏法であるならば、私くし達がたとえ何処へ行っていても大聖人様は必ず見ていて下さる。何でお見離しになるでしょう。」と、絶対だと言う確信が湧いてくるのです。
『かわいい子には旅をさせろ』との諺通り、私くし達が修行をして行く上に於いての一つの試練として、色々の方法を持って成仏の道へと御導き下さるのだと思います。
我々は唯、南無妙法蓮華経と唱えてはいても、さもすれば煩悩ばかりが先に立って観念的になり、惰性になり、六道を輪廻しているのが現実ではないのでしょうか。
考えてみれば、『成仏、成仏』と口では言っているようなもので、実際の成仏とは、我々が考えているような、そんな甘いものではないのでしょう。
霊界の上位に入って行く事さえ難しくなっている今の世の中、天上界なんて本当に(修行を)頑張らなくてはいけません。