天上編③

 

見渡(みわた)(かぎ)(だい)草原(そうげん)が、地平線(ちへいせん)彼方(かなた)まで(つづ)ているかとも(おも)ました。だが自分(じぶん)(こころ)()()て、()()いる(うち)段々(だんだん)()って()した。

「そうだ、ここは霊界(れいかい)かも()ない」

すると、「自分(じぶん)(ゆめ)()いる(わけ)ではなく、幽体(ゆうたい)離脱(りだつ)()いるのかも()ない。」

(わた)しが、そう(おも)たのは(いま)までにも何回(なんかい)(わけ)()らずに、こう()体験(たいけん)をしているからです。それが(あと)になって幽体(ゆうたい)離脱(りだつ)であった(こと)を「(ほう)(かた)」から(おし)られました。

 そう()自分(じぶん)()()(かんが)てみれば、自分(じぶん)意識(いしき)人間界(にんげんかい)()(とき)(まった)(おな)ようにハッキリしておりますし、(けっ)(ゆめ)のようにそんなフワッとしたものではありません。

人間界(にんげんかい)()自分(じぶん)がそのまま、ここに()いると()だけのもののように(おも)ました。ただ世界(せかい)(ちが)()だけの(こと)()ません。

「そうだ、それならそれでもいいんだ。」

何故(なぜ)人間界(にんげんかい)(こと)などは、不思議(ふしぎ)(いっこう)()にならない。(なに)(べつ)世界(せかい)(こと)のようにも(おも)るのです。

(いま)自分(じぶん)としての現実(げんじつ)、ここに()ると()(こと)()りはないのです。ちっとも(さみ)くないし、それどころか、むしろ(なに)期待(きたい)(むね)(はず)()ような(おも)さえして()のです。

 

「あー、空気(くうき)美味(おい)しい。」

(なん)()ようのない新鮮(しんせん)(さわ)かな、まるでスイスの高原(こうげん)にある別荘(べっそう)()にでも()いるような(かん)です。自分(じぶん)では人間界(にんげんかい)での感覚(かんかく)そのものです。

 

()()(だい)草原(そうげん)3000メートル(くらい)間隔(かんかく)砂丘(さきゅう)のように、なだらかな『うねり』を()ながら、(はる)彼方(かなた)まで(つづ)ているのです。

その(さら)(はる)彼方(かなた)には山上(さんじょう)(くも)をかむった連山(れんざん)()()青空(あおぞら)(なか)にくっきりと()(うつく)(かがや)ており、()るような(みどり)草原(そうげん)には、(いろ)とりどりの(はな)()(みだ)、そよ()(かぜ)にかすかに()ており、(みぎ)(とお)くに()小高(こだか)(おか)中腹(ちゅうふく)から(うえ)(ほう)にかけて()(なら)んでいる建物(たてもの)は、住宅(じゅうたく)()か、(なん)()か、ともかく素晴(すば)らしいもので、まるで金銀(きんぎん)出来(でき)ているかのように(ひか)(かがや)ているのです。

 

「すげーなー。こんな素晴(すば)らしい建物(たてもの)(だれ)()んでいるんだんべーなー。」

いくらか(こころ)にゆとりが出来(でき)てきたのか、つい田舎弁(いなかべん)()きそうになってしまいます。

(いのち)というのは不思議(ふしぎ)なものです。肉体(にくたい)がないのに(くせ)がそのまま()()しまうのですから…。

 

そして、(いま)まで()()ませんでしたが、(すこ)()()()(したが)何処(どこ)からともなく、そよ(かぜ)()てと()ますか、(うえ)(ほう)からと()ますか、素晴(すば)らしい音色(ねいろ)音楽(おんがく)が、(しず)(なが)ている(こと)気付(きづ)いたのです。

それは人間界(にんげんかい)ではあまり()(こと)のない楽器(がっき)のようでもあり、メロディーなのです。

()ているだけで(こころ)(やす)らぎ、(たの)くなってきます。

()()(わた)しは、その砂丘(さきゅう)のようになっている小高(こだか)(ところ)(こし)()ろして、その風景(ふうけい)見蕩(みと)れておりました。

(わた)以外(いがい)(だれ)もおらず、たった一人(ひとり)なのですが、不思議(ふしぎ)(すこ)(さみ)くなく、それどころか、(なに)(あたた)人々(ひとびと)(こころ)(つつ)まれているような、(また)力強(ちからづよ)いものに(ささ)られているような気持(きも)ちさえするのです。

 

「これが仏法(ぶっぽう)であり、諸天(しょてん)加護(かご)であり、大聖人(だいしょうにん)(さま)()慈悲(じひ)()ものかも()ない。この大宇宙(だいうちゅう)は、すべて大聖人(だいしょうにん)(さま)御心(おこころ)にあるのだ。これを(つかさ)どるものが仏法(ぶっぽう)であるならば、(わた)(たち)がたとえ何処(どこ)()ていても大聖人(だいしょうにん)(さま)(かなら)()いて(くだ)る。(なん)見離(みはな)しになるでしょう。」と、絶対(ぜったい)だと()確信(かくしん)()てくるのです。

『かわいい()には(たび)をさせろ』との(ことわざ)(どお)り、(わた)(たち)修行(しゅぎょう)をして()(うえ)()いての(ひと)つの試練(しれん)として、色々(いろいろ)方法(ほうほう)()って成仏(じょうぶつ)(みち)へと御導(おみちび)(くだ)るのだと(おも)ます。

 

我々(われわれ)(ただ)南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)(とな)てはいても、さもすれば煩悩(ぼんのう)ばかりが(さき)()って観念的(かんねんてき)になり、惰性(だせい)になり、六道(ろくどう)輪廻(りんね)しているのが現実(げんじつ)ではないのでしょうか。

(かんが)てみれば、『成仏(じょうぶつ)成仏(じょうぶつ)』と(くち)では()ているようなもので、実際(じっさい)成仏(じょうぶつ)とは、我々(われわれ)(かんが)ているような、そんな(あま)ものではないのでしょう。

霊界(れいかい)上位(じょうい)(はい)()(こと)さえ(むずか)くなっている(いま)()(なか)天上界(てんじょうかい)なんて本当(ほんとう)に(修行(しゅぎょう)を)頑張(がんば)らなくてはいけません。