平成元年10月13日。
その夜は午後11時ごろに床に着き、特に何を考えている訳でもなく、どう言う訳か目が冴えてしまって中々眠れませんでした。上を向いたり横を向いたりと、寝返りばかりを打ちながら心の中で題目を唱えておりました。
どの位時間がたったのでしょうか。柱にかかっている小さな時計のアラームが二度鳴りました。一時間おきに鳴ることになっているので、おそらく午前1時頃にはなっていたのではないのでしょうか。
急に私くしの耳に「キーン」と言う音が激しく聞こえ始めたかと思うと、私くしの身体から発するところの波動が、また急に強くなり始めたのです。
これに対して私はあまり驚くことはありませんでした。なぜならば私くしは、こういう事は度々経験しているからです。それは法華経「法の方」から御指導を頂く時などには、こういう現証が時々現れる事がありました。
これは無意識のうちに自分の生命の状態に応じて念が呼応するのでしょう。そうでなくとも私くしは常に自分の身体から発しているところの波動は感じておりました。
人間は誰でも自分が「感じる・感じない」は別としても、生命の存在ある限り、その人の生命の状態…、つまり〔十界〕に応じた波動と言うものを発しているのです。
それが「地獄であれば地獄界へ」、「餓鬼であれば餓鬼界へ」、「修羅であれば修羅界へ」と、このように常に波動[念]の交流を、霊界の各界の住人と行っております。それを自分が「意識している、していない」に関わらずです。
人間界には『類は類を呼ぶ』と言う諺通り、その人の生命状態に良く似たような人達ばかりが集まって来ると言う事がありますが、この事なのです。これは皆、自分達が発するお互いの波動を感知し合って集まって来るのでしょう。
そしてこれは人間界には留まらず、霊界全域にまで広がっており、これらの波動をキャッチをした霊界人達も集まって来るのです。それが善につけ悪につけです。それによって自分の身に色々な事があったり起きたり、やがては将来自分の運命まで左右して行くひとつの「因」と成って行く事も事実です。
ですから「十四誹謗 」を厳しく戒められているのも、その為なのです。同じ「発する」なら、天上界以上の方々との交流が出来るような自分達になっていきたいものです。
話はだいぶ横道に、それましたけれども、元に戻りましょう。
私は上を向き、閉ざしている目の前に、高い山から小さな太陽のような光りものが現れたかと思うと、やがて私の方に向かって一筋の光りを放し始めました。
「あっ…これは一体なんだろう。」私は一瞬そう思いました。
その光の筋は私くしの方に向かって来るに従って、その範囲が広がり、私くしの身体を包んでしまったように思われたのですが、その瞬間、私くしの意識 が薄れて行くような気がして、そのまま分からなくなってしまったのです。
「あー、何と言う美しい青い空なんだ。」
私の目に初めて映ったのは、この美しい空だったのです。こんなすばらしい空を見た事がありません。
目映いばかりに、あくまでもブルーに澄み切った空には雲ひとつなく、じっと見ているだけで、自分の心か洗われて行くようで、その中に溶け込んで行ってしまうような気さえして来ます。
私くしは、その空の魅力 に何時まで見ていても飽きる事なく、うっとりとしておりました。
どのぐらいたったのか、自分でも良く分かりません。私の頬をそっと撫でて行くようなそよ風に、我に返ったように思えました。
そして徐に辺りを見回して又びっくり、そこはまるっきり別天地 なのです。