ある体験から④

それではもう一つ、鈴木(すずき)さん(仮名(かめい))の素晴(すば)らしい体験(たいけん)()紹介(しょうかい)(いた)ます。

彼女(かのじょ)もやはり〇〇〇として、(わた)しの(いえ)()れたのが(ひと)(えん)となり()()(かた)です。

最初(さいしょ)息子(むすこ)さんの()化膿(かのう)してしまい、病院(びょういん)手術(しゅじゅつ)をしなければ駄目(だめ)かも()ないと()(こと)だったようなのですが、(ただ)歯痛(はいた)(ちが)(うみ)(ほお)()(した)あたりまで()いると()(こと)らしいのです。(だれ)でもそんな手術(しゅじゅつ)はしたく()ません。それから原因(げんいん)不明(ふめい)血尿(けつにょう)()いると()のです。

 

そして(さら)最大(さいだい)難問(なんもん)()たのです。

それは夜中(よなか)になると息子(むすこ)さんの部屋(へや)()()になり、身体(からだ)金縛(かなしば)状態(じょうたい)になってベットから身体(からだ)()()り、(もの)(すご)(さけ)(こえ)()ると()のです。

こんな(こと)毎晩(まいばん)毎晩(まいばん)(つづ)たのでは、お(かあ)さんもノイローゼになって(よる)もおちおち(ねむ)なくなってしまうと()(こと)です。

まだ()ます。それは(よる)になると鈴木(すずき)さんの(いえ)(まわ)多勢(おおぜい)(ひと)砂利(じゃり)()んで(ある)ような‘ザクザク’と()(あし)(おと)()えてくると()のです。それは(いえ)(ひと)ばかりではなく、(そと)から()息子(むすこ)さんの友達(ともだち)までが()ていると()のです。そして何回(なんかい)(そと)まで()()ても(だれ)もいないと()のです。

 

あまりに気持(きも)ちの(わる)(こと)ばかり(つづ)ので、鈴木(すずき)さん()()である方位学(ほういがく)先生(せんせい)()もらった(ところ)、「(そば)にある〇〇(がわ)のきれいな(すな)砂利(じゃり)()()(いえ)(まわ)撒き(ま )なさい」と()(こと)で、(おも)(すな)砂利(じゃり)毎日(まいにち)1ヶ月(かげつ)くらいの(あいだ)(いえ)(まわ)にバケツで(はこ)()まいたそうです。

これは本当(ほんとう)大変(たいへん)だったと()ておりました。しかしそんな苦労(くろう)甲斐(かい)もなく、依然(いぜん)としてそう()現象(げんしょう)(つづ)ていたそうです。

鈴木(すずき)さんは「どうしてこんな(こと)(つづ)のだろう。」と、またまた(なや)(かんが)

「そうだ、(うち)は〇〇(しゅう)だ。お(とう)さんも(はや)()くなっているし、(おや)とは(はや)(わか)ているから、〇〇(しゅう)のお(ぼう)さんにでも()もらって供養(くよう)してもらったら()かも()ない。」そのように(おも)て、早速(さっそく)(ぼう)さんに()もらい、ねんごろに供養(くよう)してもらったそうです。

けれども、まだまだ依然(いぜん)として、そう()状態(じょうたい)は、おさまりそうもなかったと()のです。

鈴木(すずき)さんはもうホトホトに(つか)てしまい、「一体(いったい)これはどう()(こと)なのか。どうしたら(おさ)まるのか。」思案(しあん)にくれていた(ところ)()()(かた)から(わたし)(はなし)()たと()のです。そして、わざわざS()まで()(くだ)いました。

 

(わた)しは息子(むすこ)さんの身体(からだ)一見(いっけん)して、原因(げんいん)霊障(れいしょう)によるものが「(だい)」と()のです。

そこで()息子(むすこ)さんの身体(からだ)()ている(れい)(ほう)除霊(じょれい)し、(中略(ちゅうりゃく))(わたし)は「もしこれで(なお)なければ原因(げんいん)(いえ)にある」と(もう)()ました。

そして()(ほう)手術(しゅじゅつ)をしなくても()なったのですが、(そと)心霊(しんれい)現象(げんしょう)依然(いぜん)として(つづ)ていると()のです。これで原因(げんいん)は、(いえ)()()(こと)(うたが)余地(よち)はなくなりました。

さて、相手(あいて)がどんな(もの)か、どんな強敵(ごうてき)()りませんが、いずれにしても()()った(ふね)人々(ひとびと)(すく)(ため)には、そんな(こと)(かんが)てはいられません。

たとえ強敵(ごうてき)()ども、その相手(あいて)(れい))も(すく)なければ現世(げんせ)人々(ひとびと)(すく)(こと)にはならないのです。大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)修行(しゅぎょう)する(もの)は、(とき)によっては(いのち)をかけなければならない(こと)もあるでしょう。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)は、

日蓮(にちれん)弟子(でし)()臆病(おくびょう)にては(かな)ふべからず。』とおっしゃられ、まして(ほう)(ため)なら当然(とうぜん)です。

(わたし)過去(かこ)にも何回(なんかい)強敵(ごうてき)出会(であ)って(まい)ましたが、その(たび)ごとに何時(いつ)法華経(ほけきょう)御方(おかた)御力(おちから)()えを(いただ)、どうにかここまで頑張(がんば)って(まい)ました。

しかし、まだまだ本当(ほんとう)修行(しゅぎょう)はこれからで、一生(いっしょう)(つづ)ます。けれども本当(ほんとう)にありがたく感謝(かんしゃ)(いた)ております。