様々な「環境経験」を通し、また思い出しながら私なりに感じますのは、それら現象が(真意において)大聖人の仰せの通りであるという事でした。そして、自身を見つめ反省する種ともなっていきました。・・・と同時に大聖人様の仏法を正しく信仰し続けていく事の難しさを自分なりに感じています。
嬉しい事も悲しい事も様々な事に御縁をさせて頂きました。
『大聖人様の仏法を正しく信仰していたつもりが、誤った主張に騙され、気づかないまま人生に幕を閉じられた方々の苦しみや後悔・無念の思い』、
『多くの宗派団体の方々が七字の題目を唱えている中で、題目にも正邪があり、正しい題目は救う事ができ、邪な題目は苦しみへ落とすという事』、
『正しい追善供養、塔婆供養によって、必ず救われるという事』等々・・・。
環境経験を通してでも、大聖人の仏法は真実であり、正しく信仰することによって、必ず救われ、成仏できる事を知りました。・・・とは言え、この信心は修行と言われるだけあって決して楽ではありません。過去世から積むだけ積んできた「罪障」という膿を今生で出し切る必要もあります。
自身の仏道修行を通し感じた事として、成仏に繋がる長い過程の中では、幸運な事もありますが、罪障消滅する為の苦労は当たり前で、自身の中の克服すべき・磨くべき部分が環境等に様々に現れてくるという事でした。生命の好転反応とでも言うのでしょうか。信心しているからこそ如実に現れ てくるようにも感じます。それらはすべて成仏へ繋がるための種であり、現れるからこそ気づくこともできます。その『成仏への種』を見つけ、題目という清い水を注ぎ、芽を出し、華を咲かせ、仏の実を実らせる・・・。私の中では、そんなイメージです。
まずは気づく事が第一歩かと思いますので、常に己心を見つめる事が大事なのだと思います。
私にとっての道のりは、まだまだ長そうです。
『妙法蓮華経は人の道。南無妙法蓮華経は成仏への道。』
このメッセージの意とするところは、「人の道と信仰の両方があってこそ成仏への道になる」という趣旨です。逆を言えば、「人の道のない信仰に成仏はない」という事だと思います。
たとえば・・・、どれだけ信仰に熱心であっても、人としてすべき事や家庭等を疎かにしたり、親不幸をしたり等、心身共に人の道に反すれば、成仏の道にはなっていかないという意味です。
両方が一体となって初めて、南無妙法蓮華経、つまり「成仏への道」につながっていくという事です。
『気合入れる必要なし。我等の癒しは、攻撃でなく慈悲の心中、仏の姿。(略)』
これは、正法弘教に対してです。たとえば、他者に正法を伝えようとした時、最初は慈悲の心からであっても、暴言を吐かれ、煽られているうちに、相手の心に感応してしまい、いつの間にか慈悲心は消え去り、修羅界の生命になってしまった・・・等という事では元も子もありません。
正法を護持しているとはいえ、途上の凡夫ですから間違いや失敗も多分にあるかと思いますが、またそこから学び反省して、精進の種としていく必要があるのでしょう。
様々に考えますと、私達の日々の生活の中の、人生すべてが修行であり、仕事であれ何であれ、家族と過ごすとき、他者と接するときも、日々の振る舞い等、何もかもがすべて仏道修行であると言えます。法を下げる事のないよう、しっかりと心に刻んでいきたいと思います。
手記の筆者(佐々木さん)の不思議な現象は、筆者の『大聖人様の真の法を知りたい』と強く求める一念が、御本尊様に通じたものであり、大聖人の仏法の偉大さの一分を示すための、ひとつの現証です。
また通力に於いては、頂いたメッセージにもありますように、あくまでも法華経へ導くための『方便』であります。もしその方便を真理だと理解すれば、忽ち邪な道へ陥ります。
大聖人様の仏法は、一切衆生成仏の為であり、すべてはそこに通じていきます。
結局は、成仏という本来の道から離れてしまうところに邪な道があるのでしょう。
最後までご覧くださり誠にありがとうございました。<(_ _)>