あれこれ

◆気づき◆

様々(さまざま)な「環境(かんきょう)経験(けいけん)」を(とお)、また(おも)()ながら(わたし)なりに(かん)ますのは、それら現象(げんしょう)が(真意(しんい)において)大聖人(だいしょうにん)(おお)(とお)りであるという(こと)でした。そして、自身(じしん)()反省(はんせい)する(たね)ともなっていきました。・・・と同時(どうじ)大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)(ただ)信仰(しんこう)続け(つづ )ていく(こと)(むずか)しさを自分(じぶん)なりに(かん)ています。

(うれ)しい(こと)(かな)しい(こと)様々(さまざま)(こと)()(えん)をさせて(いただ)ました。

 

大聖人様(だいしょうにんさま)仏法(ぶっぽう)(ただ)信仰(しんこう)していたつもりが、(あやま)った主張(しゅちょう)(だま)され、()かないまま人生(じんせい)(まく)()じられた方々(かたがた)(くる)しみや後悔(こうかい)無念(むねん)(おも)』、

(おお)宗派(しゅうは)団体(だんたい)方々(かたがた)が七()題目(だいもく)唱え(とな )ている(なか)で、題目(だいもく)にも正邪(せいじゃ)があり、(ただ)題目(だいもく)(すく)(こと)ができ、(よこしま)題目(だいもく)(くる)みへ()とすという(こと)』、

(ただ)しい追善(ついぜん)供養(くよう)塔婆(とうば)供養(くよう)によって、(かなら)(すく)れるという(こと)等々(とうとう)・・・。

 

環境(かんきょう)経験(けいけん)(とお)てでも、大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)真実(しんじつ)であり、(ただ)信仰(しんこう)することによって、(かなら)(すく)れ、成仏(じょうぶつ)できる(こと)()りました。・・・とは()、この信心(しんじん)修行(しゅぎょう)()れるだけあって(けっ)(らく)ではありません。過去世(かこせ)から()むだけ()んできた「罪障(ざいしょう)」という(うみ)今生(こんじょう)()()必要(ひつよう)もあります。

 

自身(じしん)仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)(とお)(かん)じた(こと)として、成仏(じょうぶつ)(つな)がる(なが)過程(かてい)(なか)では、幸運(こううん)(こと)もありますが、罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)する(ため)苦労(くろう)()たり(まえ)で、自身(じしん)(なか)克服(こくふく)すべき・(みが)くべき部分(ぶぶん)環境(かんきょう)(など)様々(さまざま)現れ(あらわ  )てくるという(こと)でした。生命(せいめい)好転(こうてん)反応(はんのう)とでも()うのでしょうか。信心(しんじん)しているからこそ如実(にょじつ)現れ(あらわ   )てくるようにも(かん)ます。それらはすべて成仏(じょうぶつ)(つな)がるための(たね)であり、(あらわ)れるからこそ()くこともできます。その『成仏(じょうぶつ)への(たね)』を()つけ、題目(だいもく)という(きよ)(みず)(そそ)ぎ、()()し、(はな)()かせ、(ほとけ)()(みの)らせる・・・。(わたし)(なか)では、そんなイメージです。

 

まずは()づく(こと)(だい)一歩(いっぽ)かと(おも)いますので、(つね)()(しん)()つめる(こと)大事(だいじ)なのだと(おも)います。

(わたし)にとっての(みち)のりは、まだまだ(なが)そうです。

◆メッセージを拝して◆

妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)(ひと)(みち)南無(なん)妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)成仏(じょうぶつ)への(みち)。』

このメッセージの()とするところは、「(ひと)(みち)信仰(しんこう)両方(りょうほう)があってこそ成仏(じょうぶつ)への(みち)になる」という趣旨(しゅし)です。(ぎゃく)()ば、「(ひと)(みち)のない信仰(しんこう)成仏(じょうぶつ)はない」という(こと)だと(おも)ます。

たとえば・・・、どれだけ信仰(しんこう)熱心(ねっしん)であっても、人としてすべき(こと)家庭(かてい)(とう)(おろそ)にしたり、親不幸(おやふこう)をしたり(など)心身(しんしん)(とも)(ひと)(みち)(はん)すれば、成仏(じょうぶつ)(みち)にはなっていかないという意味(いみ)です。

両方(りょうほう)一体(いったい)となって初め(はじ  )て、()()(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)、つまり「成仏(じょうぶつ)への(みち)」につながっていくという(こと)です。

 

気合(きあい)()必要(ひつよう)なし。我等(われら)(いや)は、攻撃(こうげき)でなく慈悲(じひ)(しんちゅう)(ほとけ)姿(すがた)((りゃく))

これは、正法(しょうぼう)()(きょう)(たい)してです。たとえば、他者(たしゃ)正法(しょうぼう)(つた)ようとした(とき)最初(さいしょ)慈悲(じひ)(こころ)からであっても、暴言(ぼうげん)()かれ、(あお)られているうちに、相手(あいて)(こころ)感応(かんのう)してしまい、いつの()にか慈悲(じひ)(しん)()()り、修羅界(しゅらかい)生命(せいめい)になってしまった・・・(など)という(こと)では(もと)()もありません。

正法(しょうぼう)護持(ごじ)しているとはいえ、途上(とじょう)凡夫(ぼんぷ)ですから間違(まちが)失敗(しっぱい)多分(たぶん)にあるかと(おも)ますが、またそこから(まな)反省(はんせい)して、精進(しょうじん)(たね)としていく必要(ひつよう)があるのでしょう。

 

様々(さまざま)(かんが)ますと、私達(わたしたち)日々(ひび)生活(せいかつ)(なか)の、人生(じんせい)すべてが修行(しゅぎょう)であり、仕事(しごと)であれ(なん)あれ、家族(かぞく)()ごすとき、他者(たしゃ)(せっ)するときも、日々(ひび)()()(とう)(なに)かもがすべて仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)であると()ます。(ほう)()げる(こと)のないよう、しっかりと(こころ)(きざ)んでいきたいと(おも)ます。

◆最後に◆

手記(しゅき)筆者(ひっしゃ)佐々木(ささき)さん)の不思議(ふしぎ)現象(げんしょう)は、筆者(ひっしゃ)の『大聖人(だいしょうにん)(さま)(まこと)(ほう)()たい』と(つよ)(もと)める一念(いちねん)が、()本尊(ほんぞん)(さま)(つう)たものであり、大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)偉大(いだい)さの一分(いちぶん)(しめ)ための、ひとつの現証(げんしょう)です。

また通力(つうりき)()ては、(いただ)たメッセージにもありますように、あくまでも法華経(ほけきょう)(みちび)くための『方便(ほうべん)』であります。もしその方便(ほうべん)真理(しんり)だと理解(りかい)すれば、(たちま)(よこしま)(みち)(おちい)ります。 

大聖人様(だいしょうにんさま)仏法(ぶっぽう)は、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)成仏(じょうぶつ)(ため)であり、すべてはそこに(つう)ていきます。

結局(けっきょく)は、成仏(じょうぶつ)という本来(ほんらい)(みち)から(はな)れてしまうところに(よこしま)(みち)があるのでしょう。

 

最後(さいご)までご(らん)くださり(まこと)にありがとうございました。<(_ _)>