ある者は宙に舞い、ある者は下に舞い、と上下しながら美しい模様を次から次へと描き出して行きます。
その優美さは何と言って表現して良いのやら…。揺れる衣装が綺麗に光ります。
これに呼応するかのように、七色の美しい光と、また一段と譬えようのない良い香りが大広間一杯に広がって来て、これはまさに光の世界です。
これはもう、とてもとても言語に絶しますし、正気のさたでは見られるものではありません。へたをすれば、気絶してしまわんばかりの境地です。
そして不思議な事に、これだけの世界に来て色々な物を目の当たりに見せられても、何ひとつ人間的な卑しい心が出て来ないのです。それどころか感謝の心さえ湧いて来るのです。
その時、私の胸に『こんな所で驚くのは、まだ早い。まだ上があると言う事を忘れるではないぞ』と言う声を感じたのです。
そのまま、私くしは分からなくなってしまい、気が付いてみると我が家の床に居るのです。
そして、まだまだ身体に洸惚とした余韻が残っていて、中々覚めようとしないのです。
今までの光景が胸の中にそのまま焼き付いていて、中々消えて行きません。命の中に残留しているのでしょう。
その間、私くしの胸の中には、人間界での卑しさや欲望・悩みなどはすべて消え去り、唯受けがたき人身を受け、あいがたき「正法」御本尊様に巡り合えた喜びと幸福感で胸が、はちきれるかと思うほどでした。
人間誰でもあのような世界を見せられたとするならば、又あのような世界が本当にあり、その世界に自分が行ける事を保障されたとするならば、如何なる財産家であろうが全財産をなげうってでも行きたいと願うでありましょう。でもこれだけは、お金や物では買う事も行く事も出来ない世界なのです。
それは唯一つ、大聖人様の真の法をこの人間界で修行して自分の命を本当に磨き上げ、
「成仏」という最高の境界を得た者だけが行ける世界であり、それ以外の「その他多勢」とは言う訳には行かないのでしょう。
しかし天上界では
『一人でも多くの人々が、そういう素晴らしい境界を得て、こちらに来ていただく事を願っております』と言っておりました。
また『出来る事ならば真の法を唱行する人は全部の方が来てほしい』とも言っておりました。
天上界の人々は常に常に、それを願っているのです。
やがて二十分ぐらい経ったのでしょうか。元に戻ったような感じがして来たので、トイレに起きて見るのですが、まだ足がフラフラしているのです。
時計を見ると、一時三十分を少し回った所でした。…という事は、私くしの幽体離脱は約五分か、そこいらだったのではないでしょうか。そんな短い時間で、これだけのものが見られるのですね。命って本当に不思議なものです。(中略)
それから、最後に感じた『このぐらいの所で驚くのは、まだ早い。まだ上があると言う事を忘れるではないぞ』と言う事は、
御書云わく、
『退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきつと見るならば、あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以って地とし、金の縄を以って八つの道を界へり。天より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽し給うぞや。我等も其の数に列なりて遊戯し楽しむべき事はや近づけり。信心弱くしては かかる目出たき所に行くべからず、行くべからず。』
と言う御金言にもありますように、
もちろん霊山をお指しになられていらっしゃる事と拝しますが、そこまで行くには、まだ何段階もあると言う事かも知れません。
本当に私くし達にとっては、気の遠くなるような事ではございますけれど、
大聖人様は御書に
『仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。』と述べられておりますが、
だからと言って、南無妙法蓮華経と唱えてさえいれば、それで良いと言う事でもないのでしょう。