天上編⑧

あるものちゅう、あるものした、と上下じょうげしながらうつく模様もようつぎからつぎへとえがます。

その優美ゆうびさはなん表現ひょうげんしてのやら…。衣装いしょう綺麗きれいひかます。

これに呼応こおうするかのように、七色なないろうつくひかりと、また一段いちだん譬えたと  ようのないかお大広間おおひろま一杯いっぱいひろがって、これはまさにひかり世界せかいです。

これはもう、とてもとても言語げんごぜっますし、正気しょうきのさたではれるものではありません。へたをすれば、気絶きぜつてしまわんばかりの境地きょうちです。

そして不思議ふしぎことに、これだけの世界せかい色々いろいろものりにられても、なにひとつ人間にんげんてきいやこころいのです。それどころか感謝かんしゃこころさえのです。

 

その(とき)(わたし)(むね)『こんな(ところ)(おどろ)のは、まだ(はや)。まだ(うえ)あると()(こと)(わす)るではないぞ』と()(こえ)(かん)たのです。

  そのまま、(わた)しは()らなくなってしまい、()()いてみると我が家(わ や)(とこ)()のです。

そして、まだまだ身体(からだ)洸惚(こうこつ)とした余韻(よいん)(のこ)ていて、中々(なかなか)()ようとしないのです。

(いま)までの光景(こうけい)(むね)(なか)にそのまま()()いていて、中々(なかなか)()()ません。(いのち)(なか)残留(ざんりゅう)しているのでしょう。

 

その(あいだ)(わた)しの(むね)(なか)には、人間界(にんげんかい)での(いや)しさや欲望(よくぼう)(なや)などはすべて()()(ただ)()がたき人身(じんしん)()、あいがたき「正法(しょうぼう)()本尊(ほんぞん)(さま)(めぐ)()えた(よろこ)幸福感(こうふくかん)(むね)が、はちきれるかと(おも)ほどでした。

 

  人間にんげんだれでもあのような世界せかいられたとするならば、またあのような世界せかい本当ほんとうにあり、その世界せかい自分じぶんこと保障ほしょうされたとするならば、如何いかなる財産家ざいさんかであろうが全財産ぜんざいさんをなげうってでもたいとねがでありましょう。でもこれだけは、お金  かねものではことこと出来できない世界せかいなのです。

それはただひとつ、大聖人だいしょうにんさままことほうをこの人間界にんげんかい修行しゅぎょうして自分じぶんいのち本当ほんとうみが

成仏じょうぶつ」という最高さいこう境界きょうがいものだけが世界せかいであり、それ以外いがいの「その多勢おおぜい」とはわけにはないのでしょう。

 

しかし天上界てんじょうかいでは

一人ひとりでもおお人々ひとびとが、そういう素晴すばらしい境界きょうがい、こちらにいただくことねがっております』とておりました。

また『出来できことならばまことほう唱行しょうぎょうするひと全部ぜんぶかたほしい』ともておりました。

 天上界てんじょうかい人々ひとびとつねつねに、それをねがっているのです。

 

やがて二十(ぷん)ぐらい経っ(た )たのでしょうか。(もと)(もど)ったような(かん)がして()ので、トイレに()()のですが、まだ(あし)がフラフラしているのです。

時計(とけい)()と、一()三十(ぷん)(すこ)(まわ)(ところ)でした。…という(こと)は、(わた)しの幽体(ゆうたい)離脱(りだつ)(やく)(ふん)、そこいらだったのではないでしょうか。そんな(みじか)時間(じかん)で、これだけのものが()れるのですね。(いのち)って本当(ほんとう)不思議(ふしぎ)なものです。中略(ちゅうりゃく)) 

それから、最後(さいご)(かん)た『このぐらいの(ところ)(おどろ)くのは、まだ(はや)。まだ(うえ)あると()(こと)(わす)るではないぞ』と()(こと)は、

 

御書(ごしょ)()く、

退転(たいてん)なく修行(しゅぎょう)して最後(さいご)臨終(りんじゅう)(とき)()御覧(ごらん)ぜよ。妙覚(みょうかく)(やま)(はし)(のぼ)りて四方(よも)きつと(屹度)()ならば、あら(おも)(しろ)法界(ほうかい)寂光土(じゃっこうど)にして瑠璃(るり)(もっ)()とし、(こがね)(なわ)(もっ)て八つの(みち)(さか)り。(そら)より四種(ししゅ)(はな)ふり、虚空(こくう)音楽(おんがく)()えて、諸仏(しょぶつ)菩薩(ぼさつ)(じょう)(らく)()(じょう)(かぜ)にそよめき、娯楽(ごらく)快楽(けらく)(たも)うぞや。我等(われら)()(かず)(つら)なりて遊戯(ゆげ)(たの)むべき(こと)はや(ちか)けり。信心(しんじん)(よわ)くしては かかる目出(めで)たき(ところ)()べからず、()べからず。』

()()金言(きんげん)にもありますように、

もちろん霊山(りょうぜん)をお()しになられていらっしゃる(こと)(はい)ますが、そこまで()には、まだ何段階(なんだんかい)もあると()(こと)かも()ません。

 本当(ほんとう)(わた)(たち)にとっては、()(とお)くなるような(こと)ではございますけれど、

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)(ごしょ)

(ほとけ)()候事(そうろうこと)(べつ)(よう)(そうら)はず、南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)(たじ)なく(とな)(もう)して(そうら)ば、天然(てんねん)と三十二(そう)八十種好(しゅこう)(そな)ふるなり。如我等(にょがとう)無異(むい)(もう)して釈尊(しゃくそん)(ほど)(ほとけ)にやすやすと()(そうろう)なり。』と()られておりますが、 

だからと()て、南無(なん)妙法(みょうほう)(れん)()(きょう)(とな)てさえいれば、それで()()(こと)でもないのでしょう。