ですから、私くし達、真の法を唱行する者が、仏力・法力が頂けたら、と言いましても決して魔の通力とは言わないのです。
魔の通力とは〇〇や〇〇〇〇が畜類のような物や又、色々得体の知れないものを本尊と立ててそれを拝み、その通力によって僅かばかりの力を見せられ、それが神だと信じ込んでしまい、その悪縁によってやがては、その本尊と同じような姿になって、自ら自分を滅ぼし、民衆まで巻添えにして行ってしまう事を魔の通力と言うのであり、正法を行じている私くし達が拝する所の御本尊様は、あくまでも大聖人様の御命なのです。(中略)
邪教が病気を治したり、ものを当てたり、色々な事をやっておりますが、そんな事は正法を持ってやれば雑作もない事で、取るに足らないものなのです。
私くし達の信仰の目的は、そんな小さなものではないはずです。
以前に私くしが体験発表をさせて頂いた事がありますが、その文の中で、
「今はすべての次元を超越して自由におうか出来る。この命の喜びは私くしにとって、最高の功徳であり、宝です」と申し上げた事がありました。
まさに命と言うものは自分の心次第では、自在の神通を発揮する事が出来るのです。
ですから、私くしが〔法〕の方から御指導を頂き、御金言を賜わると言う事も不思議な事でも何でもなく、成仏を目指し、真の法を修行して行く者ならば、当然の事なのであります。(中略)決して限られた者だけと言う事でもありません。ただひとつ言える事は、いかに真の法に近付けるかと言う事です。それまでには、幾多の魔や、鬼神との対決も覚悟せねばなりませんが、これは修行ですから当然の事なのです。
大聖人様が上野殿の病をお治しになられた時、鬼神を喝破なされた事は、あまりにも有名ですが、私くしのような者でさえも、魔王また鬼神に何回も命を狙われた事もありました。
その度に守護神や十方の諸仏の御方々の御力添えを頂き、何とかここまでやって参りました。
御書に
『魔競はずんば 正法と知るべからず』との御金言がございますが、
『魔と言うものは、たとえ少しの心の隙でも見逃す事なく競って来る。
魔が競うと言う事は真の法に近付いた証拠でもあるが、油断なく、しっかりと肝に銘じて、さらに精進して行く事です』と言う御指導を頂いた事もございます。
また、私くしが上の世界を見せて頂いたと言う事は、特別な事ではないと思います。
これは真の法を修行して行く者ならば、誰しも心の中に存在するものをひとつの修行の為の手段として、見せ与えられたものと拝します。決して私くしの生命が故ではないと言う事です。
それからひとつお断りさせて頂く事は、私くしが見せられた天上界でのあの素晴らしい天人の舞いは天上界の皆様が、年中あのような事をして暮らして居ると言う事ではありません。
もちろん天上界での暮らしは、素晴らしいものに間違いはありませんが、(中略)たまたま天上界での何かの祝典にぶつかった所を見せて頂けたものと拝します。