ある体験から①

大聖人(だいしょうにん)(さま)は、[崇峻(すしゅん)(てん)(のう)御書(ごしょ)]に

人身(じんしん)()がたし、(つめ)(うえ)()人身(じんしん)(たも)ちがたし、(くさ)(うえ)(つゆ)。』と()れておられます。

 

人間(にんげん)として()まれ()られるのは、十方(じっぽう)(なか)にある無限(むげん)とも()れる生命(せいめい)(かず)(うち)の、本当(ほんとう)(ひと)(にぎ)りに()ないと()れております。

また、人間(にんげん)として()まれ()られたとしても、その生命(せいめい)(たも)って()(こと)如何(いか)(むずか)いかと()(こと)でしょう。たとえ(たも)ったにしても、わずか70(ねん)80(ねん)という(みじか)期間(きかん)でしかなく、百年(ひゃくねん)まで()(ひと)(すく)ない。たとえ、()たにしても「(ただ)()ている」と()(こと)だけに()ず、それでは人間(にんげん)(なん)(ため)に、この()(なか)()れて()のであろうか。

それは(ただ)一つ(ほとけ)()(ため)、この()修行(しゅぎょう)道場(どうじょう)であると()(こと)(わす)てはならない…と()(こと)でしょう。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)は、[佐渡(さど)御書(ごしょ)]に

(ひと)(また)()くの(ごと)し 世間(せけん)(あさ)(こと)には身命(しんみょう)(うしな)へども、大事(だいじ)仏法(ぶっぽう)なんどには(すつ)(こと)(かた)(ゆえ)(ほとけ)になる(ひと)もなかるべし。』ともおっしゃられております。

 

(いま)世間(せけん)()に、(なん)無駄(むだ)身命(しんみょう)()()人々(ひとびと)(かず)(おお)(こと)であろうか。(じつ)(なげ)かわしい(こと)である。

人間(にんげん)(ほとけ)()(ため)には、どうしても人間界(にんげんかい)()色々(いろいろ)(いのち)持主(もちぬし)交流(こうりゅう)しながら、また色々(いろいろ)(おも)をしながら、(おのれ)(いのち)(みが)(すこ)でも(たか)次元(じげん)(いのち)進化(しんか)させて()なくてはならず、この()はその(ため)道場(どうじょう)なのです。(ただ)(おのれ)煩悩(ぼんのう)(おもむ)ままの欲望(よくぼう)(もと)ての人生(じんせい)ではないはずです。ですから我々(われわれ)何回(なんかい)大道(だいどう)輪廻(りんね)しても(ほとけ)には()なかったのです。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)は、

(こころ)()とはなるとも(こころ)()とせざれ』とおっしゃられておられます。

それほど、(ひと)(こころ)()ものは、あてにはならないものなのです。(しん)られるようで(しん)られない自分(じぶん)一晩(ひとばん)()()()(こころ)()わってしまう…。そんな自分(じぶん)如何(いか)()めきって()かと()(こと)問題(もんだい)であり、それが仏法(ぶっぽう)なのです。つまり、(こころ)基準(きじゅん)となって()のが仏法(ぶっぽう)なのです。

 

(わた)(たち)過去(かこ)から、何度(なんど)何度(なんど)色々(いろいろ)なものに()まれ()って()(こと)でしょう。そして、やっと(ねが)いが叶い(かな  )人間(にんげん)として()れて()(こと)出来(でき)たのです。この(とうと)人生(じんせい)何故(なぜ)無駄(むだ)()(こと)出来(でき)ましょうか。(中略(ちゅうりゃく)

私達(わたしたち)過去(かこ)永遠(えいえん)(つづ)()(いのち)(なか)で、ある(とき)(たか)(いのち)()地上(ちじょう)()(こと)もあったかも()ません。それが自分(じぶん)使命(しめい)(わす)(ふたた)六道(ろくどう)輪廻(りんね)して()のではありませんか。

(いま)末法(まっぽう)()()まれ()人々(ひとびと)は、三毒(さんどく)強盛(ごうじょう)(ごう)(ふか)人間(にんげん)ばかりが()()(とき)だとも()れております。それは過去(かこ)より様々(さまざま)(もの)()()り、様々(さまざま)(おも)をしながら輪廻(りんね)して()(ほとけ)()なかった(もの)(たち)ばかりなのでしょう。

その(ため)に、わざわざ大聖人(だいしょうにん)(さま)()本仏(ほんぶつ)〕が、これらの(しゅう)をお(すく)なさる(ため)に、この()にお()ましになられたのでしょう。

 

その(なか)大聖人(だいしょうにん)(さま)は、[生死(しょうじ)(いち)(だい)()(けち)(みゃく)(しょう)]に

過去(かこ)宿縁(しゅくえん)()()って今度(このたび)日蓮(にちれん)弟子(でし)()(たも)ふか。釈迦(しゃか)多宝(たほう)こそ()存知(ぞんじ)(そうろう)らめ。』と。

あなたは過去(かこ)からの宿縁(しゅくえん)によって今度(こんど)日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)(さま)弟子(でし)となられたのでしょうか。その(こと)は、釈迦(しゃか)多宝(たほう)二仏(にぶつ)()()存知(ぞんじ)でありましょう、とおっしゃられているのです。

 

ですから、(いま)()(なか)真実(しんじつ)(ほう)(とな)民衆(みんしゅう)(なか)に、(まこと)(ほう)(ひろ)民衆(みんしゅう)(すく)()(もの)は、大聖人(だいしょうにん)(さま)久遠(くおん)からの弟子(でし)であり、釈迦(しゃか)宝塔(ほうとう)儀式(ぎしき)(とき)地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)であるとも()れております。しかしそれは、表面(ひょうめん)(てき)なものではなくて、(いのち)奥底(おうてい)にあるものですから、自分(じぶん)(みずか)(さと)らなければ()(こと)出来(でき)ないものなのでしょう。

(ただ)題目(だいもく)(とな)ているからと()ものでもなく、せっかくの(たか)(いのち)()ながら、気付(きづ)(こと)なく煩悩(ぼんのう)()(まわ)されて、(おのれ)欲望(よくぼう)()かけ、一生(いっしょう)(むな)()ってしまうのでは、地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)でも(なん)もなく(ただ)凡夫(ぼんぷ)()ません。