大聖人様は、[崇峻天皇御書]に
『人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。』と言われておられます。
人間として生まれて来られるのは、十方の中にある無限とも言われる生命の数の内の、本当の一握りに過ぎないと言われております。
また、人間として生まれて来られたとしても、その生命を持って行く事が如何に難しいかと言う事でしょう。たとえ持ったにしても、わずか70年か80年という短い期間でしかなく、百年まで生きる人は少ない。たとえ、生きたにしても「唯、生きている」と言う事だけに過ぎず、それでは人間は何の為に、この世の中に生まれて来るのであろうか。
それは唯一つ、仏に成る為、この世は修行の道場であると言う事を忘れてはならない…と言う事でしょう。
大聖人様は、[佐渡御書]に
『人も又、是くの如し 世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨る事難し。故に仏になる人もなかるべし。』ともおっしゃられております。
今、世間を見るに、何と無駄に身命を捨てて行く人々の数の多い事であろうか。実に嘆かわしい事である。
人間は仏に成る為には、どうしても人間界に出て色々な命の持主と交流しながら、また色々な思いをしながら、己の命を磨いて少しでも高い次元に命を進化させて行かなくてはならず、この世はその為の道場なのです。唯、己の煩悩の赴くままの欲望を求めての人生ではないはずです。ですから我々は何回大道を輪廻しても仏には成れなかったのです。
大聖人様は、
『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とおっしゃられておられます。
それほど、人の心と言うものは、あてにはならないものなのです。信じられるようで信じられない自分。一晩寝て起きて見れば心が変わってしまう…。そんな自分を如何に見つめきって行くかと言う事が問題であり、それが仏法なのです。つまり、心の基準となって行くのが仏法なのです。
私くし達は過去から、何度何度と色々なものに生まれ変わって来た事でしょう。そして、やっと願いが叶い人間として生まれて来る事が出来たのです。この尊い人生を何故に無駄に過ごす事が出来ましょうか。(中略)
私達は過去・永遠に続いて来た命の中で、ある時は高い命を持ち地上に出た事もあったかも知れません。それが自分の使命を忘れ、再び六道を輪廻して来たのではありませんか。
今、末法の世に生まれて来る人々は、三毒強盛な業の深い人間ばかりが出て来る時だとも言われております。それは過去より様々な者に生まれ変わり、様々な思いをしながら輪廻して来ても仏に成れなかった者達ばかりなのでしょう。
その為に、わざわざ大聖人様〔御本仏〕が、これらの衆をお救いなさる為に、この世にお出ましになられたのでしょう。
その中で大聖人様は、[生死一大事血脈抄]に
『過去の宿縁追ひ来たって今度日蓮が弟子と成り給ふか。釈迦多宝こそ御存知候らめ。』と。
あなたは過去からの宿縁によって今度、日蓮大聖人様の弟子となられたのでしょうか。その事は、釈迦・多宝の二仏が良く御存知でありましょう、とおっしゃられているのです。
ですから、今の世の中で真実の法を唱え、民衆の中に、真の法を広め民衆を救って行く者は、大聖人様の久遠からの弟子であり、釈迦・宝塔の儀式の時の地涌の菩薩であるとも言われております。しかしそれは、表面的なものではなくて、命の奥底にあるものですから、自分が自ら悟らなければ知る事が出来ないものなのでしょう。
唯、題目を唱えているからと言うものでもなく、せっかくの高い命を持ちながら、気付く事なく煩悩に振り回されて、己の欲望を追いかけ、一生空しく終わってしまうのでは、地涌の菩薩でも何でもなく唯の凡夫に過ぎません。