仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう) 2/2

 (いま)()べてきたように、仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)道理(どうり)は、仏法(ぶっぽう)世法(せほう)別々(べつべつ)なものではなく、仏法(ぶっぽう)根本(こんぽん)としながらも(ふた)つにして(ひと)つ、(ひと)つにして(ふた)つという二而不二(ににふに)関係(かんけい)()くものである。

そこで大切(たいせつ)なことは、根本(こんぽん)となる仏法(ぶっぽう)にどのような道理(どうり)真理(しんり)()かれているかということである。

 

 (さき)ほど()べてきたのは、円滑(えんかつ)最上(さいじょう)道理(どうり)()法華経(ほけきょう)の、仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)()べたものである。

しかし、拝読(はいどく)御文(ごもん)のように、弘法(こうぼう)慈覚(じかく)智証(ちしょう)()邪義(じゃぎ)謗法(ほうぼう)(おし)えを中心(ちゅうしん)とした仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)道理(どうり)であるならば、

(たい)()がれば(かげ)なゝめなり」との御文(ごもん)のように、(おお)きくは国家(こっか)社会(しゃかい)も、(ちい)さくは個々(ここ)生活(せいかつ)全般(ぜんぱん)にわたって、(みだ)れ、(にご)るという悪果(あっか)(まね)くことになるのは当然(とうぜん)である。

 これに(たい)して、(わたし)たち法華講員(ほっけこういん)は、三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)究竟(くきょう)とする妙法(みょうほう)蓮華経(れんげきょう)正法(しょうぼう)受持(じゅじ)し、信行(しんぎょう)(はげ)むが(ゆえ)に、日々(ひび)仏意(ぶっち)()らされ、妙法(みょうほう)大真理(だいしんり)(みちび)かれ功徳(くどく)(つつ)まれた、充実(じゅうじつ)した歓喜(かんき)生活(せいかつ)(いとな)んでいくことができるのである。

 本来(ほんらい)ならば、円満(えんまん)(ただ)しい妙法(みょうほう)(たも)(ぎょう)じているのであるから、その仏力(ぶつりき)法力(ほうりき)功徳(くどく)によって、(わたし)たちの境界(きょうがい)も、また(しん)()()三業(さんごう)による()()いも、(おの)ずと円満(えんまん)(ただ)しく立派(りっぱ)なものとなっていかなければならないはずである。

 

 ところが現実(げんじつ)は、お(たが)いにまだ修行中(しゅぎょうちゅう)()であるために、また(ひと)によっては過去(かこ)遠々劫(おんのんごう)からの謗法(ほうぼう)(おも)宿業(しゅくごう)により、なかなか生命(せいめい)浄化(じょうか)されず、(えん)()(とき)として(とん)(じん)()三毒(さんどく)生命(せいめい)()()しで(あらわ)われ、()とぶつかり()ってしまうことがある。

 そのぶつかり()(かたち)様々(さまざま)で、同志(どうし)(たい)して(うら)みや(にく)しみをもち、(ねた)んだり、中傷(ちゅうしょう)したり、(とき)には無視(むし)したり、ということもあるのではなかろうか。

 あるいは(おな)寺院(じいん)参詣(さんけい)しながら、故意(こい)(かお)(そむ)けたり挨拶(あいさつ)をしなかったりということはないだろうか。(とき)にはわざと連絡(れんらく)をしなかったり、報告(ほうこく)をしなかったり等々(とうとう)場合(ばあい)もあるのではないだろうか。

 

 過去世(かこせ)からの重業(じゅうごう)のなせる(わざ)とは()え、あるいは信心(しんじん)未熟(みじゅく)のためとはいえ、あるいは修行中(しゅぎょうちゅう)()であるとはいえ、正法(しょうぼう)受持(じゅじ)(ぎょう)じながら、三毒(さんどく)(なが)された生活(せいかつ)信心(しんじん)をしていて、一体(いったい)どうやって広布(こうふ)前進(ぜんしん)させていくことができるのだろうか。

 どうやって()支部(しぶ)健全(けんぜん)発展(はってん)させ、充実(じゅうじつ)させていくことができるのだろうか。

 どうやって罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)させ、身口意(しんくい)境界(きょうがい)(たか)めて、正法(しょうぼう)受持(じゅじ)実証(じっしょう)(しめ)していくことができるだろうか。(わたし)たちは年頭(ねんとう)()たって、まずこのことを真剣(しんけん)(かんが)え、反省(はんせい)すべきではないだろうか。

 

 正法(しょうぼう)受持(じゅじ)(ぎょう)じていながら、いつまでも三毒(さんどく)(なが)された生活(せいかつ)をしている(ひと)は、ただ(ただ)しい仏法(ぶっぽう)(たも)っているということのみに自己(じこ)満足(まんぞく)して、正法(しょうぼう)(たも)(ぎょう)じていることへの、責任(せきにん)()たす信心(しんじん)にまでは(いた)っていない、ということになりはしないだろうか。

 

 いくら(ただ)しい仏法(ぶっぽう)といっても、世間(せけん)信心(しんじん)していない(ひと)や、大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)(まな)んでいない(ひと)は、大聖人(だいしょうにん)正法(しょうぼう)そのものを直接(ちょくせつ)()ることはできないのである。世間(せけん)(ひと)大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)判断(はんだん)するのは、(わたし)たちの()()によってであり、(とき)(わたし)たちの言動(げんどう)であったり気遣(きづか)いであったりするが、(せん)()めて()えば(わたし)たちの人間性(にんげんせい)によるのである。

 世間(せけん)(ひと)初信(しょしん)(ひと)は、(わたし)たちの、あるいは(ふる)くから信心(しんじん)している(ひと)幹部(かんぶ)役員(やくいん)信心(しんじん)姿(すがた)()て、(とく)身口意(しんくい)三業(さんごう)による()()(つぶさ)観察(かんさつ)して、大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)(とうと)さ、(ただ)しさを()(はか)るのである。ここに(なが)正法(しょうぼう)(たも)(ぎょう)ずる(もの)にも、また(ひと)(みちび)(もの)にも、(とも)に、大聖人(だいしょうにん)正法(しょうぼう)(たい)する責任(せきにん)(しょう)ずることを()るべきである。

 

 その責任(せきにん)とは、「大聖人(だいしょうにん)最高(さいこう)唯一(ゆいいつ)正法(しょうぼう)(いや)しめるようなことをしてはならない。(ほう)()げてはならない、(みずか)らが広布(こうふ)(さまた)げとなってはならない、異体(いたい)同心(どうしん)()(やぶ)るような言動(げんどう)をしてはならない。」という責任(せきにん)である。この正法(しょうぼう)への責任(せきにん)(つよ)(かん)ずることができる(もの)は、信心上(しんじんじょう)のことで(なに)があろうとも、(とん)(じん)()(まん)()(とう)三毒(さんどく)煩悩(ぼんのう)(みずか)らの意思(いし)によって抑制(よくせい)していくことができるのである。

 

 かって日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)は、四条(しじょう)金吾殿(きんごどの)(たい)して、

 「中務(なかつかさ)三郎左衛門尉(さぶろうさえもんじょう)(しゅ)(おん)ためにも、仏法(ぶっぽう)(おん)ためにも、世間(せけん)(こころ)ねもよかりけりよかりけりと、鎌倉中(かまくらじゅう)(ひと)びとの(くち)にうたはれ(たま)へ」(崇峻(すしゅん)天皇(てんのう)御書(ごしょ)(しん)1173

 と(おお)せられたが、これはまさに正法(しょうぼう)(ぎょう)ずる(もの)として責任(せきにん)()たしていくよう(いまし)められた御文(ごもん)(はい)することができよう。

 (すなわ)御文(ごもん)()とするところは、世間(せけん)(ひと)びとに、世法(せほう)においても仏法(ぶっぽう)においても、正法(しょうぼう)受持(じゅじ)(ぎょう)じている(もの)実証(じっしょう)(しめ)して、正法(しょうぼう)への信頼(しんらい)(あつ)めていきなさいということである。

 正法(しょうぼう)(たも)ちながら三毒(さんどく)生命(せいめい)をそのままにするのではなく、また正法(しょうぼう)(たも)っていることのみの自己(じこ)満足(まんぞく)にとどまることなく、(わたし)たちは(さら)一歩(いっぽ)二歩(にほ)(すす)んで正法(しょうぼう)受持(じゅじ)(ぎょう)ずることへの責任(せきにん)()たす信行(しんぎょう)実践(じっせん)していこうではないか。

 

 大聖人(だいしょうにん)(おな)じく四条(しじょう)金吾殿(きんごどの)(たい)して、

 「教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)出世(しゅっせ)本懐(ほんがい)(ひと)()()にて(そうらい)けるぞ。穴賢(あなかしこ)穴賢(あなかしこ)(かしこ)きを(ひと)云ひ(いい)、はかなきを(ちく)という」(崇峻(すしゅん)天皇(てんのう)御書(ごしょ)(しん)1174

 と(おお)せられているように、仏法(ぶっぽう)即世法(そくせほう)道理(どうり)であればこそ、釈尊(しゃくそん)出世(しゅっせ)本懐(ほんがい)(おし)えとなる法華経(ほけきょう)は、(ただ)ちに(もっと)(やさ)れた(もっと)(とうと)い、(ひと)としての()()実践(じっせん)することを()いているのであり、法華経(ほけきょう)受持(じゅじ)(ぎょう)ずる(わたし)たちは、(ひと)としての最高(さいこう)()()ができるよう、最大(さいだい)努力(どりょく)をしていくべきである。

 広宣(こうせん)流布(るふ)は、(ひと)としての()()を、一人(ひとり)ひとりがお(たが)いに地道(じみち)実践(じっせん)していくところから()()げられることを確信(かくしん)し、本年(ほんねん)信行(しんぎょう)精進(しょうじん)していこうではないか。

妙教(みょうきょう)2004(ねん)1月号(がつごう)より』