ある体験から⑤

そして(わた)しは鈴木(すずき)さんと()()せて()(あらた)B(けん)鈴木(すずき)(たく)(うかが)(こと)にしたのです。

鈴木(すずき)さんの(いえ)は〇〇(えき)から(すこ)(はな)(ところ)にあり、(わた)しが(はじ)()(とき)には、まだ(まわ)りには(いえ)(すく)なく(はたけ)()んぼ(など)()ておりました。4LDKの、新築(しんちく)してまだ何年(なんねん)もたってないような()()たりの()、こじんまりとした、使(つか)()出来(でき)(かん)()二階(にかい)()てでした。

 

(わた)しは「こんな(いえ)本当(ほんとう)心霊(しんれい)現象(げんしょう)()る」なんて(しん)られませんでしたが、(いえ)()(いただ)(すこ)(はなし)をしている(うち)(なに)二階(にかい)(ほう)から霊気(れいき)(なが)てくるのを(かん)()のです。

「そうだ、(うえ)(なに)ある。」そう(おも)二階(にかい)部屋(へや)()(いただ)たのですが、三つの部屋(へや)(うち)息子(むすこ)さんの部屋(へや)(なか)でも一番(いちばん)(つよ)(かん)るのですが、(さら)にまだ(うえ)(ほう)から(かん)()ものがありました。

(わた)しは不思議(ふしぎ)(おも)(うかが)()と、二階(にかい)(うえ)四畳半(よじょうはん)くらいの収納庫(しゅうのうこ)()()のです。

(わた)しは、そこが(あや)いと(おも)(たの)でそこを()け、はしごを()ろしてもらって、(うえ)にのぼって()たのです。

そして収納庫(しゅうのうこ)(くび)()()瞬間(しゅんかん)、「ここだ!」と(おも)ました。(いき)出来(でき)なくなる(くらい)(つよ)霊気(れいき)(かん)たのです。

 

早速(さっそく)鈴木(すずき)さんの()家族(かぞく)(かた)三人(さんにん)二階(にかい)部屋(へや)題目(だいもく)(とな)(いただ)ように(たの)(わた)しが一人(ひとり)収納庫(しゅうのうこ)()って()()(ぐち)()けておいて、その(うえ)()題目(だいもく)(とな)(はじ)たのですが、中々(なかなか)(こえ)圧迫(あっぱく)され()こないのです。

(わた)しは無理(むり)息張(いきば)るように(こえ)()題目(だいもく)(とな)(つづ)ました。そして(さら)(つよ)圧力(あつりょく)(くわ)り、(なに)眩暈(めまい)がしてくるような(かん)がし、()()()()ような(かん)さえして()した。

 

すると両方(りょうほう)(みみ)にキーンと()(たか)波動(はどう)(かん)たのです。これは法華経(ほけきょう)(ほう)〕からの()力添(ちからぞ)えかも()ないと(おも)ました。

とたんに(こえ)()(はじ)たと同時(どうじ)に、(わた)しの()ている(まわ)(よろい)武者(むしゃ)が、ズラズラと()()のです。その(かず)は、何十人(なんじゅうにん)何百人(なんびゃくにん)か、すごい(かず)です。戦国(せんごく)()人達(ひとたち)のようです。

〇〇と()(ところ)(いま)()戦場(せんじょう)(あと)があちら・こちらに()ますが、その当時(とうじ)(ころ)人達(ひとたち)でしょう。まだ、どこにも()ず、この()(とど)っていたのかも()ません。

彼等(かれら)には、まだ(たたか)()っていないのです。(きず)()(ひと)、ざんばら(かみ)(ひと)、やりを(つえ)にしている(ひと)、それはそれは(すご)ものです。

 

(わた)しは、こう()人々(ひとびと)過去(かこ)にも、〔(ほう)〕の方々(かたがた)()協力(きょうりょく)のもと何回(なんかい)もお(すく)して(まい)ましたが、こう()人々(ひとびと)をお(すく)する(とき)は、一つの方法(ほうほう)として方便(ほうべん)使(つか)せて(いただ)のです。

そうでなければ、とても()(こと)()(いただ)ない(こと)(おお)(なか)には反抗(はんこう)して()方々(かたがた)もいるのです。

(わたし)(ほとけ)(さま)のお使(つか)皆様(みなさま)をお(すく)(まい)ました」と()皆様(みなさま)説得(せっとく)(はじ)るのです。

そして最後(さいご)にこの題目(だいもく)をお(おし)して全部(ぜんぶ)皆様(みなさま)をお(すく)して()るのですが、ある程度(ていど)(ちから)がないと自分(じぶん)がやられてしまう(こと)もありますので、一番(いちばん)大事(だいじ)(こと)()絶対(ぜったい)なる確信(かくしん)法華経(ほけきょう)()をおまかせするという(こと)でしょう。

 皆様(みなさま)(よろこ)法華経(ほけきょう)(ひかり)()て、(あか)世界(せかい)へと(たび)()()ました。

 

そしてこれを最後(さいご)鈴木(すずき)(たく)にはピタリと(わる)現象(げんしょう)()なくなりました。

文証(もんしょう)理証(りしょう)現証(げんしょう)と、この三つが実証(じっしょう)されるのは大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)(のぞ)ては(なに)もありません。(ほか)如何(いか)なる方法(ほうほう)(もち)いても、(なに)結果(けっか)()かったのですが、法華経(ほけきょう)(もち)いた(こと)によって歴然(れきぜん)結果(けっか)(あらわ)たのです。(中略(ちゅうりゃく)

これがきっかけとなり、鈴木(すずき)さんは内得(ないとく)信仰(しんこう)(はじ)(こと)出来(でき)ました。

そして、それから一(ねん)()、めでたく()本尊(ほんぞん)(さま)をお(むか)する(こと)出来(でき)たのです。

 

(わた)しはすぐに()本尊(ほんぞん)(さま)()下附(かふ)お勧(  すす)(いた)ません。本当(ほんとう)に、この(ひと)自分(じぶん)(いのち)ある(かぎ)(まも)()(かた)かどうか、ある程度(ていど)見極(みきわ)めない(かぎ)お勧(  すす)めする(こと)はしていないのです。

本当(ほんとう)(もと)(ひと)ならば、(おし)()(ひと)親身(しんみ)になって、その(ひと)(ため)(おも)確信(かくしん)()て、(ほう)(はなし)()せて()るならば、自分(じぶん)()(とお)結果(けっか)()ます。それによって、(さら)相手(あいて)(もと)()す。

 

大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)は、(もと)ても(もと)ても、広大(こうだい)無辺(むへん)()甚深(じんじん)無量(むりょう)なのです。(なん)()素晴(すば)らしい(ほう)でありましょうか。このような偉大(いだい)(ほう)(めぐ)()(こと)(こころ)より、感謝(かんしゃ)せずにはいられません。