法をみつめて⑤

それから3ヶ月(かげつ)()5(がつ)4(よっか)(ころ)、(中略(ちゅうりゃく)去年(きょねん)(おな)ように心臓(しんぞう)(ほう)も、一分間(いっぷんかん)3(さんかい)(くらい)(やす)一体(いったい)これはどのようになっているのか、さっぱり()りません。

しかし5(いつか)()(くらい)から、だいぶおさまって()して、5(がつ)10(とうか)昼間(ひるま)(わたし)(ほう)班員(はんいん)さんである宮本(みやもと)さん(仮名(かめい))と佐藤(さとう)健一君(けんいちくん)仮名(かめい))が()くれました。

 

ひさぶりほうはなしはなき、そのよる今度こんどわたしほうから健一君けんいちくんうち訪問ほうもんして、その家族かぞく皆様みなさま健一君けんいちくんまじ色々いろいろほうはなしをしておりました。

そんな(とき)健一君(けんいちくん)が、「()()たくなった。」と()二階(にかい)()って()てしまいました。

それから1()(かん)20(ぷん)(くらい)()ってから()りて()して、(ひだり)()画用紙(がようし)()()ました。」と()一枚(いちまい)()()てくれました。

その()普通(ふつう)(ひと)()も、すぐに理解(りかい)のできるものではありませんが、「(さと)」と(だい)たその()は、真中(まんなか)(ひかり)中心(ちゅうしん)があって、その中心(ちゅうしん)から十方(じっぽう)()って(はな)白金(はっきん)(ひかり)…。(ひかり)というより(ひかり)(うず)です。

もしこれが現実(げんじつ)に三次元(じげん)人間界(にんげんかい)〕で()ったとしたら、大聖人(だいしょうにん)(さま)の「竜ノ口(たつのくち)での法難(ほうなん)」の(とき)のように我々(われわれ)は、()がくらみ(たお)てしまうかも()ません。健一君(けんいちくん)のお(かあ)さまですら、その()()(とき)に「()(いた)…」と()()をおさえたくらいです。

 

その白金(はっきん)(かがや)(ひかり)(なか)何万(なんまん)()仏菩薩(ぶつぼさつ)生命体(せいめいたい)()られるのです。

これは健一君(けんいちくん)自動(じどう)画記(がき)法華経(ほけきょう)(ほう)〕の(かた)から()かされたもので、自分(じぶん)意識(いしき)して()たものではありません。

ですから、その(とき)法華経(ほけきょう)(ほう)〕の(かた)から、「この(くらい)のクラスの()自分(じぶん)一生(いっしょう)(うち)に、二十(まい)とは()(こと)出来(でき)まい。」と()れたそうです。

健一君(けんいちくん)も、この()()のに「途中(とちゅう)2(かい)休み(やす  )ましたよ。」と()ておりました。

また「もし、もう一(まい)()たとすれば(ぼく)心臓(しんぞう)()ってしまうかも()ません。」とも()ておりました。

 

(わた)しは、「これだけの(すご)エネルギーをまともに()()(こと)出来(でき)るのは、通常(つうじょう)(ひと)では到底(とうてい)出来(でき)るものではない」と(おも)ました。これだけを()も、その(かた)生命(せいめい)次元(じげん)()ります。

ですから健一君(けんいちくん)真実(しんじつ)(ほう)目覚(めざ)めた(とき)変身(へんしん)ぶりは、()見張(みは)るものかあり、到底(とうてい)常識(じょうしき)では(かんが)られません。

健一君(けんいちくん)は(当時(とうじ)高校生(こうこうせい)なのですが、春休(はるやす)新学期(しんがっき)(はじ)(わず)期間(きかん)で、学校(がっこう)先生(せんせい)生徒(せいと)からも見違(みちが)えられたと()れておりました。先生(せんせい)などは健一君(けんいちくん)名前(なまえ)()ながら、本人(ほんにん)()(かえ)と‘キョトン’とした(かお)をし、

佐藤(さとう)か…? 佐藤(さとう)だな…」と()(ねん)をおすような始末(しまつ)だったそうです。その(くらい)変身(へんしん)ぶりだったのでしょう。

 

しかし先生(せんせい)()、そのように()たのは、健一君(けんいちくん)の「外相(がいそう)」を()()たのだと(おも)ますが、外相(がいそう)ばかりではなく健一君(けんいちくん)生命(せいめい)すべて、十如是(じゅうにょぜ)そのものが()って()います。

この健一君(けんいちくん)に、(わた)しが(はじ)()(とき)から不思議(ふしぎ)(こと)に、健一君(けんいちくん)可愛(かわい)てならないのです。

その可愛(かわい)()のは、自分(じぶん)子供(こども)(まご)可愛(かわい)とは(べつ)のもので、なんと言葉(ことば)(あら)して()のか()りません。(かお)()だけでも(こえ)()だけでも()のです。「元気(げんき)頑張(がんば)っているんだな」と()(こと)だけでも()れば安心(あんしん)するのです。

(おお)身体(からだ)をしていて、(わたし)何時(いつ)()()るような、身長(しんちょう)185cm(くらい)あるそうですが、何故(なぜ)この()がこんなに可愛(かわい)のか本当(ほんとう)不思議(ふしぎ)(こと)です。きっとこれは、過去(かこ)から〔(ほう)〕を(つう)ての(ふか)宿縁(しゅくえん)によるものとしか(かんが)られません。

 

そして()てくれたその()は、(わた)しが平成(へいせい)10(ねん)2(がつ)9(ここのか)(よる)に「(わたし)なりに(さと)(とき)()」だと()のです。(わたし)がそのように()れた(とき)自分(じぶん)自分(じぶん)(うたが)った(くらい)でした。

確信(かくしん)()たとはいえ、これほどの生命(せいめい)状態(じょうたい)になっていたなんて、(しん)られなかったのです。でもこれは、(わたし)己心(こしん)(なか)()った現証(げんしょう)直接(ちょくせつ)()()るものではありません。

釈迦(しゃか)(さま)宝塔(ほうとう)儀式(ぎしき)ではないけれど、(くう)次元(じげん)・四次元(じげん)での出来(でき)(こと)なのです。つまり、「生命(せいめい)世界(せかい)での(こと)」とでも(もう)しましょうか。

 

(わた)しは、その()()から(つぎ)(あさ)心臓(しんぞう)身体(からだ)調子(ちょうし)もすっかり(なお)てしまったではありませんか。

(いま)まで自分(じぶん)(さと)たとはいえ、自分(じぶん)(こころ)何処(どこ)かで自分(じぶん)にはまだ()らない(はん)(しん)(はん)()(ところ)があったのかも()ません。それを健一君(けんいちくん)()によって(はじ)(おし)られたのです。